読書日記 2018年

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草原の記 司馬遼太郎 新潮文庫 ★★★★☆

ウランバートルへの往復の機内で読んだ。
司馬遼太郎、最晩年の作品の一つ。

 空想につきあっていただきたい。

 モンゴル高原が、天にちかいということについてである。
 そこは、空と草だけでできあがっている。人影はまばらで、そのくらしは天に棲んでいるとしかおもえない。

で始まり、たちまちのうちに司馬遼太郎ワールドに引き込まれていく。これはもう名人芸である。
ハバロフスクで泊まったホテルの描写。

 サーヴィス管理がゆきとどかないのか、便器には前の借りぬしが残したものが大量に蟠っているというふうだった。

なんていう文章は、司馬さんにしか書けないだろう。

モンゴルは、まことに不思議な国である。人類史上最大の帝国を築いたかと思うと、あっという間に世界史の表舞台から消えた。「元ノ北帰」のあと、

 カラコルムは元の滅亡後、蒸発したようにもとの草原にもどった。

という。
今回の旅で、オゴタイ・ハーンが定めた帝都、カラコルム(ハラホリン Хархорин)も訪れる予定だったが、ヘンティー山脈を馬を繰って疾走した挙げ句に疲れ果て、結局行くことはかなわなかった。
でも、たとえ行ってみたところで、ただ茫々たる草原が広がっているだけだったかもしれない。(一応、世界遺産にはなっているが・・・。)

カラコルムとは「黒い砂地」の意味である。「カラ」(хар)はモンゴル語で「黒」を意味する。
トルコ語でも「黒」は kara である。アゼルバイジャン語では qara、ウズベク語では qora である。
日本語のクロもこの「カラ」から来ているのではないか・・・というのは司馬さんの空想だが、なるほど面白い。
ところで、本書では触れられていないが、「黒」はサンスクリット語でも「カラ」(kāla)なのである。
ヒンディー語では काला(kālā)、ベンガル語では কাল(kalo)、シンハラ語では කලු(kalu)である。
これは偶然なのだろうか?

まことに、モンゴル人と漢人は水と油のようであり、相容れない。
農民が土を耕すことは、天の喜ぶこととされる。それに対し遊牧民は、草原の土を掘ることを極度に嫌がった。
中国の歴史では、北方はつねに醜悪であり、侵略者として描かれてきた。しかし、むしろ農民のほうが草原への侵略者だったのではないか。
そりゃそうだろう、と思う。
実際、モンゴルの中国嫌いは徹底している。ウランバートルの街衢では、漢字をまったく見かけなかった。
モンゴル語では、中国人のことをヒタットフン(хятад хүн「契丹人」)というのが面白い。ちなみにロシア語のキタイ(Китай)もここから来ている。

幸い、モンゴルで内蒙古人にもブリヤート人にも会うことができた。
だが、本家のモンゴル国のモンゴル人とは微妙な関係性があるようだった。その辺の事情は、部外者にはなかなかわかりにくい。

司馬さんはモンゴル語学科の出身だから、モンゴルにはひときわ強い思い入れがあっただろう。
「満州国」が成立したとき、司馬さんは小学生だったというから、今にして思えば随分と歴史的である。司馬さんは、満州の戦車第一連隊に赴任して、戦車砲を射った。
本書の主人公は、司馬さんの一つ年下の、ツェペクマさんというモンゴル人女性である。
ツェペクマさんは、バイカル湖の近くのブリヤートの村に生まれ、幼少時にソ満国境を越えて満州に入り、興安嶺の裾野で育った。その後フフホトに住んだが、文化大革命の中国を逃れて生まれ故郷のシベリアへ行く。そして、ウランバートルのホテルで従業員の仕事を得、二度と中国に戻ることはなかった。
歴史に翻弄されたツェペクマさんの数奇な人生は、満州とモンゴルの草原で、司馬さんの人生と交錯する。

本書の最後に、ベトナム戦争の時にモンゴルがベトナムに送った馬が、ハノイから数千キロの道のりを駆けてモンゴルに戻ってきた、という話が出てくる。
まったく同じ話を、モンゴルで会った内蒙古人から聞いた。司馬さんは半信半疑のようだが、本当のことなのかもしれない。(18/08/19読了 18/12/05更新)

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