2003年 44冊

(★〜★★★はお薦め度
「市民科学者として生きる」 高木仁三郎 岩波新書 ★☆

    いやはやモーレツな人生だ。正直こういう人生は送りたくないと思った。本書はガンで入院中に病床で書かれ(それ自体が壮絶だが)、その約1年後にこの著者は亡くなった。

    この人は元は核化学の研究者だったのだが、大学のポストを擲って反原発の市民運動に身を投じていった。職業的科学者が論文至上主義に陥っているとか、科学が体制内化しているという指摘は正しいんだが、だからといってどうすることもできない…。科学を市民の手に、という主張も、自分の専門分野の関係もあるが、あまり問題意識としてはないなぁ。

    これで今年の読書はおしまい。アメリカに来てから読書量が増えたのはいいことだ。('03.12.20)

「モゴール族探検記」 梅棹忠夫 岩波新書 ★★☆

    アフガニスタン奥地のどこかに、チンギス・ハーンの末裔と思しき、モンゴル系の言語を話す謎の民族がいる。それがモゴール族である。この探検がなされたのは1955年のことで、戦後まもなくの時期に、悠長にも人類学のフィールド・ワークが行われていたとは驚きである。これはもう50年も前のことだから、大昔である。「地理的探検という意味では、現代はもはや探検の時代ではない。しかし、人類学的探検ということになると、それはまだ始まったばかりである」とあるが、記載されていない民族や言語など、もはや地球上には残っていないだろう。

    ethnologueによれば、モゴール語の話者数は200人以下で、"nearly extinct" となっている。しかしモゴール語は、この本が書かれた当時、既に滅びゆく言語だった。それが、現代物質文明との接触によるものではなく、タイマニやパシュトゥーンとの部族間の勢力争いに敗れたからだ、というのはちょっとロマンがある。彼の地では、何千年もの間、そういうことが絶え間なく繰り返されてきたのだ。

    これは、ソ連が侵略するよりもずっと前の、(今よりは)平和だった時代のお話である。見渡す限り、赤茶けた不毛の荒野。こんなところに、米国は爆弾の雨を降らせたのだ。('03.12.12)

「ブッシュのアメリカ」 三浦俊章 岩波新書 ★★

    この本は、イラク戦争へと突っ走っていったブッシュのアメリカを、冷静に中立に客観的に分析したものである。が、このことについて考え始めると、どうしても近頃の日本政府の対応に思いが至ってしまい、憤りを感じずにはいられない。言いたいことは山ほどあるが、ここではこの問題には触れない。

    ブッシュは、40歳までアル中同然だったし、就任当初はその言語能力の低さをさんざん揶揄された。が、911の直後には支持率は90%になり、イラク戦争を始めた時でさえ70%を越えていた。多様性の国アメリカは一体どこへ行ってしまったのだろう?しかし実際のところ、アメリカの全体像というものを語ることは不可能なのだ。我々は、アメリカというとニューヨークやロサンゼルスといった大都市を想像しがちだが、アメリカではむしろ大都市に住む人口の割合は意外に少ないのかもしれない。ブッシュ政権を支持するコテコテのキリスト教原理主義者は中央部や南部の小都市や農村に多くいて、そういう連中はほとんど外国人とも接触しないから、なかなか実態が見えてこないのだろう。

    最近のアメリカや日本の政治を見ていると、アメリカが押しつけたがっている「民主主義」というものさえ、これが果たして本当に最良の政治形態なのか疑問を感じてしまう。第1に、民主主義のもとでは少数者の意見は決して実現しない(例えば日本におけるアイヌ)。国境というものは多くの場合気まぐれに決められたにすぎず、国家は民主主義の「単位」としては全く相応しくない。第2に、国民の大多数が狂っていれば、国家全体が狂うことになる。しかし民衆はマスメディアによって簡単に洗脳される。第3に、民主主義において、政治家の目的は国家(ましてや世界)を良くすることではなく、選挙に勝つことである。だから真に偉大な政治家は決して現れないのだ。とはいえ、代案がある訳ではない。

    ブッシュのアメリカを一言で言えば、「卑怯」ということだろう。それにしても、これが21世紀だろうか。('03.12.6)

「9・11 アメリカに報復する資格はない!」 Noam Chomsky 文春文庫

    私はチョムスキーの思想には共鳴するが、この本自体は質が低い。「アメリカはテロ国家の親玉」という見方は、今やそんなに真新しいものでもないと思う。だからこそ、なぜそう思えるのかをキチンと書いて欲しかったが、読みにくくて細部までフォローする気が起きない。これはeメールを通じて行われたインタビューをまとめたもので、随分と焦って出版されたみたいだから、原著も分かりにくいのかもしれない。だが何より翻訳がひどい。注釈も付けてしっかりと訳出してくれたら資料的価値も高いと思うのだが、残念。「あとがき」によれば、この訳者(山崎淳氏)は、「自由」とか「民主主義」とかいう米国政府のプロパガンダをそのまま鵜呑みにしていて、本書を読んで目から鱗が落ちたそうだから、相当におめでたい人のようだ。

    まぁ、この本がアメリカで売られているという事実に少しだけ希望を感じることにしよう。('03.11.30)

「旅で眠りたい」 蔵前仁一 新潮文庫 ★★

    面白いには面白いんだが、思ったほどディープではなかった。とっても健全。旅に出たときに既に33歳だったこと、独りではなく夫婦一緒だったことが理由だろう。1年がかりでアジアを横断、イスタンブールに至り、そこから更に1年半かけてアフリカを旅するなんてのは、羨ましすぎて眩暈がする。本書にはアジアの部分だけが含まれているが、その中ではメインであるインドがやっぱり一番面白い。

    「旅人」という職業は、歳を取るにつれ、体力的にきつくなるし感動も薄れていくので、なかなか難しいだろうと思う。もっともこの著者は1956年生まれだからバック・パッカーとしてはかなりの大御所で、「旅行人」なんていう雑誌を創刊してしまったくらいだから、この業界では教祖的な存在なんだろう。現在は、誰かさんのせいで世界中がすっかりキナ臭くなってしまったので、バック・パッカーにとっては受難の時代かもしれない。('03.11.25)

「鏡の中の物理学」 朝永振一郎 講談社学術文庫 ★★

    本書には、一般向けの物理学書の中で古典的名作との誉れ高い、「光子の裁判」が収められている。ファインマンは「相対性理論は誰にでも理解できるが、量子力学を本当に理解している人はいない」という意味のことを言ったが、通俗的な量子力学の本というのはどれも似たり寄ったりな説明の仕方で、結局のところ量子力学を言葉で説明することはほとんどできないのだろう。その中で、この「光子の裁判」は、確かに他に類を見ない傑作だ。薄っぺらいので一瞬にして読み終わる。('03.11.16)

「エコロジー的思想のすすめ」 立花隆 中公文庫

    一見してつまらなそうだが、6年くらい前に買ってしまったので一応読んだ。立花隆が30歳の時に書いた、事実上の処女作。まぁ30年前には「エコロジー」なんてとっても新しかったろうから、確かに先見の明はあったのかもしれないが、今読む価値はない。教科書的な記述が多くて眠くなるし、「鯨より人間の方がエントロピーが低い」などという意味不明の箇所もある。立花隆はジャーナリストとしては一流なんだが、思想家としてはどうも…。('03.11.13)

「パンダの親指 (上)(下)」 Stephen Jay Gould ハヤカワ文庫 ★★★

    本書は、<進化>を縦糸にして縒り合わせた「自然誌」あるいは「自然史」の物語である。特殊性と一般性の間に橋を架けるこの姿勢こそが大切で、こういう視点は、日本の生物教育には決定的に欠落していると思う。だが、それも日米の博物館の格差を鑑みれば納得がいく。実際、本エッセイはニューヨーク自然史博物館の広報誌、"Natural History"誌に掲載されたものだ。

    日本人なら誰でも知っているように、パンダは座って、手で器用に笹をつかんで食べる。しかし、パンダは熊の仲間、つまり食肉目であり、食肉目の脚は獲物を捕らえるために、速く走ることに適応している。物をつかむように親指と他の指が向かい合わせになっているのは霊長目の特権だったはず。実はパンダは、親指と向かい合わせになっている部分に5本の指を持っていた!ではこの「パンダの親指」は一体何か?という問いかけから、自然は「聖なる工匠」ではなくて「すぐれた鋳掛屋」に過ぎず、このことがまさに進化が実際に起こったことを表している、という一般論が展開されていく。

    下巻には、1972年にEldredgeとGouldが提唱した、有名な「断続平衡説」(Punctuated Equilibrium)の解説がある。これは、生物の進化は漸進的に起こるのではなく、長期間にわたる安定期とそれよりずっと短い急激に変化する時期とによって特徴づけられるということで、それほど凄いことを言っているとも思われない。こういうパターンは経時的に変化する系(広義の<進化>)には共通してよく見られるから、言葉が独り歩きしている面もあると思う。

    また、レイシズム(人種差別)に反対する記述が繰り返し現れる。これは1970年代のアメリカという時代背景を知る必要があろう。人類学を囓ってみれば、文化の多様性がいかにかけがえのないものかが分かって、(侵略)戦争なんかアホらしくてやってられないんだが、しかし逆に科学が差別を正当化する目的に利用されたことも多々あったわけだ。

    全般的に、非常に質が高く内容が濃い。実はこの本は、6年くらい前に下巻の途中まで読んだことがあった。今回読み返してみてもほとんど記憶に残っていないところを見ると、グールドの著作の真価が分かるためには相当に知識の蓄積を必要とするようだ。文章は装飾過多で読み易くはないが、きっと原文はもっと芸術的なのだろう。もっとも本書を原文で読むのは相当に骨の折れる作業だと思う。それを思えば、注釈も充実しているし、この翻訳は良くできていると思う。('03.11.9)

「新・アメリカ合州国」 本多勝一 朝日文庫 ★★☆

    非常に勉強になった。本書はアメリカ黒人と先住民の現在に関するルポである。アメリカに固有の文化があるとしたら、それを担っているのは先住民族と黒人に他ならないから、私の興味と完全に合致する。しかし、この両者の実情は、アメリカに1年くらい暮らしてみただけでは一向に見えてこない。

    筆者は米国を、「地球史上最悪の帝国」とコキ下ろす。まぁ人類の歴史なんてロクなことがなかったが、努めて客観的に判断してみても(残念ながら)この評価は妥当だと思う。

    私はかねてより、Politically Correct とされる "African American" という言葉に違和感を感じていたのだが、本書を読んでその理由が分かった。この言葉の裏には、「肌の色は違えどみんな同じアメリカ人なのだ」という思想がある。しかし黒人は、奴隷としてアフリカから強制的に連れて来られたのであって、望んでアメリカ人になった訳ではない。実際本書によれば、黒人のなかでもよりラディカルな思想を持った人たち(黒人の自立を強調する人たち)は "black" という言葉を好んで使う。なぜなら自分たちをアメリカ人とは認めていないからだ。ま、コリン・パウエルの如き輩は確かに "African American" だが。

    著者の長年に渡るジャーナリストとしての経験のから導き出された結論なのだろうが、本書には独特の言い回しが散見される。「合衆国」を「合州国」と書くのは理にかなっているし、「ファスト・フード」を「早食いエサ」などと言うのも、文学的センスは全くないものの気持ちは分かる。が、「ウィ」を「ヰ」と表記したり、英語をわざわざ「アングル語」などと言い換えたりするのは如何なものか。('03.10.27)

「バカの壁」 養老孟司 新潮新書

    この本がベスト・セラーであるという事実は、日本の活字文化の衰退を物語っている。この前日本に帰ったとき、「朝日・毎日・読売各紙で大絶賛!」というオビを見て何となく買ってしまったが、大衆なんてマスコミによって簡単に操作されるのだろう。

    話したことをそのまま文章化したらしいのでとても平易だが、内容は散漫で、論点がはっきりしない。要するに大したことは書かれていない。イスラム対米国の「文明の衝突」が起こるのは一元論のせいだ、なんてことは言われなくても分かっている。

    153頁に『赤緑色盲の人間は「信号の赤青の区別が付かない」という理由で運転免許が取れない』と書いてあるが、デタラメだと思う。大体、元医学部教授がこんな差別を助長するようなことを書いていいのか?新シリーズを立ち上げたので早く体裁を整えたいという出版社の意図が見え見えだが、本の作り方が安易すぎて腹が立つ。('03.10.22)

「古風堂々数学者」 藤原正彦 新潮文庫 ★★☆

    この人は実に文章が巧い。抱腹絶倒とまでは行かなくとも、声を出してゲラゲラ笑ってしまうこと請け合いだ。

    著者の主張は大方において賛成である。小学校では読み書きそろばん、特に国語を重視せよ、というのは激しく同意。「ゆとり教育」などと称してパソコンの操作を教えるなんてのは愚の骨頂だ。ついでに言えば、小学校で英会話を教えるというのも、無意味どころか有害だとさえ思う。分別のある有識者が長い時間かけて議論した結果のはずなのに、どうしてこう悪い方へばかりもっていこうとするのだろう。

    筆者の指摘通り、「改革」などと仰々しく呼ばれているものはみんなアメリカの真似なのだ。しかし、アメリカというのはそんなに手本にしたくなるような国かね?社会が病んでいることは言うまでもなく、歴史も伝統もないし、物質文明の洗練度においてさえもはや日本の方が遙かに上だと思う。一つ本書の中で違和感があったのは、「私は欧米で数年間の研究生活を送ったが、何度圧倒的な欧米文化につぶされそうになったことだろう」というくだりだった。こういう感覚は私にはない。欧米コンプレックスからいつまでも脱却できない世代の連中が日本を牛耳っている限り、日本はますますダメになっていくんじゃないだろうか?('03.10.19)

「赤ちゃんと脳科学」 小西行郎 集英社新書 ★☆

    そのうち育児や教育といったものも脳科学の観点から語られるようになるだろうが、現状では脳科学は何も教えてはくれない。哲学なり信念が先にあって、それを援用するために(一見)科学的なデータを持ち出してくるというのは、科学の方法としては危険な気がする。この本のメッセージは「早期教育はイカン」ということで、「天才に育てるより、幸せな人間に育てたい」というキャッチフレーズももちろん賛成である。つまりは、著者の30年にわたる小児科医としての経験から出てくる言葉のほうがずっと重みがあるということだ。('03.10.9)

「The Millennium Problems」 Keith Devlin Basic Books ★★

    2000年5月に、クレイ数学研究所は数学の7つの未解決問題を提示し、それぞれに100万ドルの懸賞金を掛けた(そのウェブサイトはこちら)。その7問とは、以下の通りである:

    P versus NP
    The Hodge Conjecture
    The Poincare Conjecture
    The Riemann Hypothesis
    Yang-Milles Existence and Mass Gap
    Navier-Stokes Existence and Smoothness
    The Birch and Swinnerton-Dyer Conjecture

    素人ながら無責任な解説を加えることにする。まずリーマン仮説についてはこちらを参照。バーチ=スウィナートン・ダイアー予想(これはBirchさんとSwinnerton-Dyerさんの2人が考えた問題)というのは、楕円曲線上に有理点がどの位あるかというような問題らしい。フェルマー予想=ワイルズの定理の証明の鍵となった谷山=志村予想(1999年に解決済み)にも深く関係していて、この7問の中ではリーマン仮説と並んで一番数学っぽいかも。しかし、その定式化にはゼータ関数に二捻りくらい加えた L-関数なるものを定義しなければならず、直感的には理解しがたい。

    ポアンカレ予想:「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相である」は、トポロジーの世界の有名な超難問である。その意味するところは、穴が開いていなくて端もないような3次元の物体は滑らかに変形することによって3次元球面にすることができる、ということだ(と思う。注:我々に馴染みのある普通の球面は2次元球面)。これは高次元の方が証明が易しくて、4次元以上では解決済みだが、なぜか3次元の場合のみが未解決だった。ところがインターネットで調べてみると、どうやら2003年4月に、ロシアのPerelmanという人が99年間誰にも解けなかったこのポアンカレ予想を証明してしまったらしい!こういう素人でも理解可能な未解決問題が解かれていくのは寂しいものがある。

    ホッジ予想というのはこの7問の中で一番意味不明である。実際、著者も本書でこの問題の解説を諦めている。だいたいコホモロジーというのがサッパリ分からん。

    P≠NP問題。NPは"Nondeterministic Polynomial"の略で、答えを与えられたとき、それが正しいことを確認するのに多項式時間を要するような問題のことである(例えば、巡回サラリーマン問題)。そういう問題は、正しい答えを探すことも含めて多項式時間で解けるような問題とは本質的に異なるだろう、というのがこの予想である。直感的には明らかに思えるんだが、その証明はまるで手掛かりさえもつかめていないという状況らしい。

    あとの2題は物理数学の問題で、こういうのがミレニアム問題に含まれているのは意外である。ヤン=ミルズ方程式とは非可換ゲージ理論の方程式である。ヤン=ミルズ方程式が強い力をうまく記述するためには、「質量ギャップ」があることが要請され、これはクォークの閉じ込めにも関係しているらしい。クォークの閉じ込めというのはQCDのもつべきごく基本的な性質のように思えるけど、その数学的な基盤は確立されていないということか。この問題は超弦理論の第一人者、Wittenが選んだものである。ナビエ=ストークス方程式は粘性をもつ流体の運動を記述する。これが発散しない滑らかな解をもつことを示せというのだが、さして美しくもない特殊な方程式について議論することが数学的にそんなに重要なんだろうか?

    この本には、ミレニアム問題がどんな分野から出題されているかをざっと鳥瞰するにはいいが、読者のレベルを低く設定しすぎているので欲求不満が募る。きっと高校生でも読み通せると思う(そのため英文が至極平易なのは良い)。そう思って、『数学七つの未解決問題』(一松 信 編、森北出版)なんていう本ををパラパラと眺めてみたが、結局この本に書かれている程度の理解しか得られなかったような…。いや、よく分からないということがよく分かった。('03.10.5)

「私の脳科学講義」 利根川進 岩波新書 ★★

    「抗体の多様性を生成する遺伝的機構の解明」により1987年にノーベル賞を受賞した著者は、現在はMITで記憶のメカニズムを探る分子生物学的研究をしている。この本に関していえば、研究の話もイマイチ分かり難かったし、インタビューもさほどimpressiveではなかった。ただ、知識・経験と体力を考慮した<創造性>のピークは30代にある、という指摘は身につまされるものがある。「助手」というシステムが日本の基礎科学をダメにしている、というのはよく言われることで、確かにサイエンス(のシステム)を比較したらアメリカの方がいいんだろうけど、この国はそれ以外の面で何かと問題が多いからなぁ・・・。

    まだ9月だけど、去年の記録(30冊)に並んだ!('03.9.22)

「エベレストから百名山へ」 重廣恒夫 光文社新書 ★★☆

    オビに書かれている、夢枕獏氏の推薦文がいい:「山が人生や夢と等価であった時代の薫りが本書からは立ち昇ってくる」。この本の面白さはやはり、著者がクライマーとしてヒマラヤの高峰に挑んだ、第2章・第3章にある。彼は森田勝、長谷川恒夫、加藤保男といった伝説的クライマー(みんな山で死んでしまった)と同時代の人で、これだけ極限的な体験をしていながら命を落とさなかったのは奇跡的だと思う。困難を追求し、より難度の高い登攀を目指すというのがアルピニズムの精神だとすれば、それは田部井さんのいう「登山は競争ではない」という姿勢とは対照的である。

    第1章は、著者が隊長として指揮をとったヒマラヤ登山のタクティクスについて述べられている。こういう話はあまり聞かないので貴重だが、これを読むと登山とはひどく政治的な行為だということが認識されて、却ってロマンをそがれる。まぁ、キャラバンを組んで大量の物資をベースキャンプに輸送し、順次荷揚げを行って最後に頂上アタック、という組織的な登山はもう流行らないんだろう。著者はガイド登山を批判しているが、「山登りの楽しみは自ら計画を作ることにある」という点は賛成だ。

    第4章は123日で日本百名山を連続踏破したときの記録である。読んでみるとまさに息つく暇もなくて、これはこれで面白い。著者の思惑は見事に当たり、この「百名山早登り」の記録はその後3回も破られている。現在の記録は66日だそうだ。ただこれ、それぞれの山の難易度は丸っきり高くないのだから、車を駆使して最短コースで攻略してしまえば面白くも何ともない(重廣恒夫氏は公共の交通機関を使うという前提で計画を立てているが、実際にはしばしば車で登山口まで運んでもらっている)。そのうち誰か、「日本百名山徒歩連続踏破」とか「厳冬期日本百名山連続登頂」でもやるんだろうか?('03.9.21)

「山を楽しむ」 田部井淳子 岩波新書 ★★☆

    レバノンやイエメンの山に登るというこのノリは大好きだ。もっとも、技術的には何ら難しくないんだから、旅行代理店を通してガイドから何から全て手配してしまえば、登頂できるに決まっている。まぁ行き当たりばったりの意外性が面白い旅と、周到な準備をもって目標を達成する登山とは、元来相容れないものなのかもしれないが、私としてはその両方を同時に追求していきたいと思っている。

    1975年、女性として初めてチョモランマ(サガルマータ)に登頂。7大陸最高峰は今や大したことないけど、チョモランマに加えて、シシャパンマ、チョー・オユーの8000m峰に登頂、更に7座の7000m峰を制覇したんだから田部井さんはやっぱり凄いのだ(田部井淳子のホームページ)。('03.9.14)

「天平の甍」 井上靖 新潮文庫 ★★

    日本への往復の飛行機の中で読んだ。格調高いが、難解な漢字が多用されているため、機内で読むと疲れる。登場人物の名前もなかなか覚えられない。鑒真の渡日という、教科書的な地味な史実を、普昭、栄叡、戒融、玄朗という4人の留学僧の生き様を通して描き出した。奈良朝のこの時代に、大陸に渡ることがいかに困難だったか、鮮明なイメージを伴って理解される(但しそれは、当時の日本は新羅と仲が悪かったため、東シナ海を横断する危険な航路をとらざるを得なかったという多分に政治的な理由による)。そういえば、唐招提寺って修学旅行で行ったっけ・・・。('03.9.10)

「学問は面白い」 選書メチエ編集部 編 講談社 ★★☆

    23人の研究者が語る<知の人生>への旅立ち。文科系の研究者が大部分で、私にとっては新鮮だった。こういう本の善し悪しは編集部による人選が全てだが、トンデモ系の人も少々含まれてはいるものの、これは全体として良く出来上がっていると思う。文科系の学者というと万巻の書を読むというイメージがあるけど、外に出て実体験を積むことの方がもっと大切なんだということを改めて教えてくれる。学問とは世界を理解しようとする営みだから、全てはそこから始まるのだ。特に印象に残ったのは、松田素二、町田宗鳳の二氏だろうか。('03.8.21)

「アシモフの科学エッセイ<14> 人間への長い道のり」 Isaac Asimov ハヤカワ文庫 ★★☆

    月がどのようにしてできたか、幻の放射線・N線、燃料や時計の歴史などなど、これぞ雑学という感じでオモシロイ。各章はたわいもないお喋りから始まっていて、ついつい引き込まれてしまう。何気ないようで、この構成の巧みさは流石にベテランである。久美沙織氏による「あとがき」は明らかに蛇足で、かなりバカっぽい。('03.8.14)

「ジーキル博士とハイド氏」 R. L. Stevenson 新潮文庫 ★★

    「新潮文庫の100冊」って、つい買ってしまう(1年前に買ったんだが)。最後の「ジーキル博士の陳述書」を読むとイマイチ釈然としない気分になるのだが、これは誰もがもつ悪の部分をひたすらに隠蔽し、偽善的に生きることすらを美徳とする哀しいイギリス人の文学なのだということを鑑みれば納得がいく。('03.7.29)

「日本人の顔」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★

    対談集で、楽しく読んだが、まぁ一度は聞いたことのあるような話だから。『街道を行く 砂鉄のみち』に書いてあったことだが、日本が非欧米の中で唯一早い時期に近代化に成功したということ、著者の言葉を借りれば、「アジア的停滞」を免れ得たということ──は、日本に鉄器がふんだんにあったから、もっといえば、気候が湿潤なために、砂鉄から鉄を作り出すことができるほどの森林の復元力があったからだ、という<司馬史観>は学問的に真剣に検討されてもいいように思う。我々日本人などというけれど、先住民族は琉球やアイヌの人たちで、我々のルーツは多くの場合むしろ朝鮮半島にあるんじゃないのかね。何かもうちょっと仲良くできないもんだろうか。('03.7.26)

「確率で言えば 日常に隠された数学」 John A. Paulos 青土社

    翻訳がひどくて日本語が支離滅裂。この本の意図は、物語と統計の間、つまり所謂「理系」と「文系」の間に橋を架けることにあるらしい。しかし<物語>というのは文化に深く根ざしているわけで、この場合それはアメリカ文化であり、我々にとっては本書の<物語>の部分はそもそも分かり易いものではない。こういう本を敢えて翻訳しようと試みるならばそれは非常に文学的でなければならないが、これはまるで自動翻訳機が訳したみたいな文章だ。原著 "Once upon a number" は割といい本みたいなだけに残念。こんなのが2400円もするというのはボッタクリだね(ちなみに原著は12ドル)。('03.7.16)

「最高の贈り物 〜'98年版ベスト・エッセイ集〜」 日本エッセイスト・クラブ編 文春文庫 ★★

    老練な作家によるやけに渋い作品が並ぶ中、表題になった'98年版ベスト・オブ・ベスト・エッセイは小学生の作文。無数にある出版物の中から、毎年どうやってここに掲載する作品を選んでいるんだろう。('03.6.26)

「二十歳のころ (上)(下)」 立花隆+東大立花ゼミ 新潮文庫 ★★

    面白い企画だと思う。語るに足りない人生なんてないんだから、誰にとっても人生が一番面白いのだ。安易といえばそうかもしれないけど、学生をタダで使って人海戦術で多数のサンプルを集めて来るという芸当は、立花隆にしかできなかったことなのだろう。

    年齢順に並んでいるのも良い。特に最初の方の、原爆被爆者の話だけでも読む価値はある。全体としては玉石混淆で、後半に行くにつれてダレてくるのだが、それは単に若いからというだけでなく時代が豊かになったからか。

    前日居酒屋で飲み潰れて先輩の下宿に収納され、澱んだ意識の中で迎えたのが私の二十歳の誕生日だった。「二十歳のころ」は、不思議な感傷を伴って想い出される。15歳の誕生日も25歳の誕生日も一向に覚えていないところを見ると、少々こじつけに思えたこのテーマも、やっぱり意味があるのかも。('03.6.18)

「The Music of the Primes」 Marcus du Sautoy Harper Collins ★★★☆

    久々に寝不足にさせてくれる本に出会った。逐一辞書を引きながら読み進めていくのは根気の要る作業だった。日本語の10倍くらい(3週間)時間がかかったが、反芻しながら読んでいったので却って深く脳裡に刻み込まれた。英語の小説を読む気は毛頭ないけど、こういうのなら何とか読み通せることが判明した。

    素数にとりつかれた数学者たちの生き様を通して、ユークリッドからRSA暗号、量子カオスといった現代的な話題まで、非常に幅広く高度な内容を含んでいる。背後には広大かつ深遠なる世界が広がっていることを窺わせる。ラマヌジャンによる分割数の公式など、ツボを押さえて数式が多少出てくるところがますます私の好奇心を刺激した。

    それでは、題名の「素数の音楽」とは一体なんだろうか?その解説はこちら

    なるほど数学は学問の王様であり、中でも数論は "Queen of Methematics" と呼ばれる所以である。私もこの本のお陰ですっかり数の世界にobsessされてしまい、amazonで衝動的に関連書を10冊ほど買い込んでしまった。それにしても、こういう一般向けの科学書はアメリカの方が圧倒的に質が高いね。日本語に翻訳されている本が意外に少ないということが分かったし、日本人による自前のものとなるともっとお寒い状況で、「図解・・・」とか「サルでも分かる・・・」とか銘打ってあるだけで中身はスカスカ、ちっとも興奮が伝わってこないようなものばっかり。日本には科学ジャーナリストという職業は存在しないけど、この本も大学教授(しかも若い!)が書いた訳だし。日本でこういう本が生まれないのは、大学のシステムのせいだろうか・・・。若者の科学離れとか言われるけど、ウ〜ン確かに由々しき事態かもしれない。

    こういうのが良質の翻訳で読めたらシアワセなんだけどなぁ。『エレガントな宇宙』『複雑系』がベスト・セラーになるようなお国柄だから、きっと売れると思うんだけど、なんなら私が翻訳しましょうか?('03.6.15)

「アシモフの科学エッセイ<8> 次元がいっぱい」 Isaac Asimov ハヤカワ文庫 ★★

    最初の「数学」の章を読んだときには、「シマッタ、このシリーズを5冊も買ってしまった」と思わせるものがあったが、全体としては結構面白かった。高校の理科に毛が生えた程度の内容で、難しくはない。しかし、数学・物理学・化学・生物学・天文学と幅広い領域をバランスよくカバーしているので、知識の穴を塞ぐのには良い。なるほど著者の博識ぶりを伺わせる。

    この本が書かれたのは1964年で、あとがきには「さすがに少々内容が古いのはいなめません」と書いてあるが(しかもこのあとがき自体が1985年に書かれたのだが)、決してそんなことはない。非常に基礎的で、歴史的な記述が大部分なため、現在でも充分読む価値がある。その中で唯一、とっても古くなってしまったのは、最も普遍的であるはずの「数学」の章である。それはコンピューターが発達したことによる。アシモフは、途轍もなく大きな数として、当時知られていた最大の素数、211213-1(3375桁の数)を挙げている。しかし現在知られている最大の素数は、2001年12月に発見された

    213,466,917-1
    なのだ!これは4,053,946桁である(400万ケタですぜ!)。ちなみに、ここには知られている大きな素数のトップ5000がリストアップされている。世の中にはマニアックなサイトがあるものだ。

    ただ何となく、著者がアメリカ中心の世界観にどっぷりと浸かっているように思われたのだが、むしろその点において時代を感じさせるのだった。('03.5.20)

「怠け数学者の記」 小平邦彦 岩波現代文庫 ★★☆

    まことにこの、湯川秀樹・朝永振一郎・小平邦彦というトリオは偉大である。こういう素朴な大学者は、今の日本にはもういないのだろう。ノーベル賞・フィールズ賞受賞者の顔ぶれを見ても、人類はだんだんと小粒になってきているような気がする。この3人は同じ時期にアメリカにいて、小平邦彦が渡米した年(1949年)の冬に湯川秀樹がノーベル賞を取ったから、このとき既に湯川秀樹はビッグ・ネームだったのだろうけど、実際のところ小平邦彦と朝永振一郎は同じ船でアメリカに渡り、同じアパートに暮らしていたのだった。

    この本の中で一番傑作なのは「プリンストンだより」である。これは著者が妻に宛てた手紙なので、感じたことを包み隠さず書いてあるのだが、メシがマズイとさかんに文句を言っているのが面白い。敗戦直後の食うや食わずの状態からやって来てこの有様なのだから、やっぱりアメリカのメシはよほどマズイのだ!彼は英語がからきしダメで、「プリンストンだより」のはじめの方はまるで頼りなくて微笑ましくさえあるのだが、1年以内に重要な発見を次々として結局18年間もアメリカに滞在してしまったあたり、やはり偉大な人は違うのだ。

    著者が渡米したときは既に34歳だったから、数学者としては遅咲きである。といっても20代のときには時代がそれを許さなかった。その頃日本はいわば鎖国状態だったから、数学の研究は「全国紙上数学談話会」というガリ版刷りの日本語の雑誌に発表されたという。戦後、著者の知り合いの知り合いである進駐軍のアメリカ人に論文を託したところ、ワイルという大数学者の目にとまって、プリンストン高級研究所に招聘されることになったのだった。その頃のプリンストンにはアインシュタイン、ゲーデル、フォン・ノイマンがいたというから、まことに歴史的である。戦時中の日本はそんな状況であったにもかかわらず、「全国紙上数学談話会」は高度の研究を含んでいて、戦後5年経っても知られていない内容もあったというから不思議なものだ。

    それから、この本には数学教育に対する批判も書かかれている。面白いのは、いつの時代でも「近頃の大学生の学力低下は目に余るものがある」などと言われていることだ。ということは、日本人は年々バカになってきているということだが、まぁ実際そうかもしれない。それはともかく、小学校低学年においては国語と算数、つまり読み書きそろばんだけを徹底的にやり、理科や社会は高学年になってから始めればよいという著者の提言には賛成である。

    もう一つ、人類と科学技術の関わりについて述べた部分もある。「人類は科学・技術には優れていて、一番下手なのは政治」というのもこういう人が言うと説得力がある。著者は、核の抑止力によって辛うじて平和が保たれている現状を指して「このように不気味で奇怪な世界をつくってしまったわれわれ現代の大人には、21世紀をになう子供たちにメッセージを送る資格はない」と誠実に言う。そう言いつつも、「ただ子供たちが21世紀の世界の政治機構を、もう少し理性的なものに改めるように努力することを望むのみである」というメッセージを送ったのだったが、残念ながらその希望は実現にはほど遠いようだ。('03.5.1)

「わが山山」 深田久弥 中公文庫 ★★

    この本は著者が30歳前後のときに書かれたものなのだが、この人、本業が小説家の割にはあんまり文章が巧くない。若い。メッチェンだのKoitusだの、まるで昔の一高生みたいだ(実際そうだったのだが)。

    「あとがき」には、「深田さんは小説家として大成せず、登山家として大成された」と冗談めかして書いてある。でも登山家といっても、ヒマラヤの8000m峰に登頂するでもなく、グランドジョラス北壁を登攀するでもなく、およそプロフェッショナルなことは何もしていない。単に山が好きで、日本の山に隈無く登っただけである。そうして、茅ヶ岳登山中に急逝された。なんだかとっても羨ましい。こんな幸福な人生ってないんじゃないかという気がしてくる。

    大正15年頃の八甲田山や朝日連峰はさぞかし秘境だったのだろう。その10年後(つまり昭和10年頃)に当時を回顧して、近年は開発によって山が俗化されてしまったことを嘆いているのが面白い。

    『日本百名山』は、つくづく名著だと思う。その良さは、自分で山に登るようになるとジワジワと分かってくる。嗚呼、山に登りたいよう。望郷の念は増すばかり也。('03.4.27)

「物理法則はいかにして発見されたか」 Richard Feynman 岩波現代文庫 ★★

    この国は、本当に希望がないなと思う。いや、アメリカに限らず、今や世界中どこを探したって希望なんてありはしないのだ。私は、疲れた。

    考えたってどうにもならないときは、考えるのを止めることだ。だから、こいつを読んでやった(嗚呼しかし、ファインマン氏は原爆をつくった人だった!)。

    保存則、対称性といった物理学ではお馴染みの、昔懐かしいお話と、ノーベル賞受賞講演が収められている。クォークが発見される以前、もう40年近くも前のお話だが、なんだかホッとする。('03.4.2)

「宮本武蔵」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★☆

    司馬遼太郎は相変わらず面白い。小次郎との対決のくだりは息もつかせぬ展開で、一気に読ませられてしまう。隠れた名作かも。('03.3.14)

「エレガントな宇宙」 Brian Greene 草思社 ★★★

    この本はすごい。これだけ詳しく、一般向けに超ひも(弦)理論を解説した本はない。時空は10次元(M理論によると11次元)で、残りの6次元はカラビ=ヤウ多様体としてコンパクト化されているとかいう話は何度も聞いたけど、いつも話はそこまでだった。この本からは、何とか一般の人に分かり易くイメージしてもらおうという著者の熱意が伝わってくる。現役の研究者として超ひも理論に多大な貢献をしていながら、この若さで、これだけジャーナリスティックな本が書けるというのは、相当に多才な人物と見た。一般に、この二つの能力は両立しないような気がするけどなぁ。まるで、この著者自体が超ひも理論みたいな存在だ(ホメすぎか?)。

    一般相対性理論と量子力学は両立しない。そこで登場するのが、自然界の4つの力を統一するこの超ひも(弦)理論だ。恥ずかしながら、私も昔はこいつをやってやろうと思っていたものだった。だけど、4つの力はおろか、電磁気力と弱い力さえ統一できずに、つまりワインバーグ=サラム理論にすら到達する前に挫折してしまった…。以来意図的に物理学の発展から目を背けてきたので、いつしかスタンダード・モデルは古典になってしまったし、「第二次超ひも理論革命」なんてのがあったことも知らなかった。だけど今は、この業界に足を踏み入れなくてつくづく良かったと思っている。こんな連中と張り合ったって勝てる訳がない。('03.3.10)

「AV女優2」 永沢光雄 文春文庫 ★★

    様々な人生の位相を自在に飛び回るのがジャーナリズムの醍醐味だとしたら、これは確かに秀逸なルポルタージュだろう。「事実は小説よりも奇なり」と思わせるようなケースもあったが、全体としては結構フツーだった。娘を持つ身となった今、これは他人事ではない・・・。('03.2.28)

「日本語の水脈」 大野晋 新潮文庫 ★★☆

    ・「妻」と刺身の「ツマ」は同じことばで、端に添えられているものという意味である(しかしこの話にはオチがあるので、ここでムッと来た人は本書を読んでください)。
    ・「考える」は「か」(場所を表す、すみかの「か」)+「向き」+「合う」から来ている。
    ・「書く」は基本的な動詞のようだが、無文字社会には存在しない。実は、これは「掻く」と同じことばである。

    こういう語源の話というのは妙に説得力があって面白い。英語では雑学的に良く聞くのだが、恥ずかしながらこと日本語に関しては今まで考えたこともなかった。親戚のたくさんいる英語に対し、日本語は孤立語なので、語源研究にはハンデがあるのだろうか。こうして見ると日本語は実に素朴な言語である。

    日本語を遡っていくと、必然的に話は日本語の起源に行き着く。しかし、あとから付け足したと思われるこの日本語ータミル語同起源説のくだりになると、どうしても胡散臭さを禁じ得ない(ちなみに、「カレー」はタミル語だそうだ)。この説の信憑性は本書からは判断しかねるけれども、タミル人と日本人はどう転んでも似ていないのに、言語だけ起源が同じなんてことがあり得るのだろうか。ところで、タミル語を母語とする人に聞いてみたところ、なんと彼はタミル語と日本語の類似性を知っていた(!)ので、この説はタミル人の間では案外有名なのかも知れない。('03.2.23)

「サイエンス・ミレニアム」 立花隆 中公文庫 ★★☆

    なんのかんのと叩かれても、やっぱり立花隆の本は面白い。インタビュー形式で科学の諸分野を横断的に紹介するのは彼の独壇場だろう。ニュートリノ物理学(小柴さんがノーベル賞を取った奴だ)、性転換、環境ホルモンという案配で、こういう話を自力で聞こうと思ってもなかなかできることではない。ちなみに遺伝研の堀田所長も登場する。科学者は自分の仕事に忙しくて、一般向けに分かり易く説明するところにまで手が回らないので、こういう人は必要なのだ。願うらくは、妙な思想は介入させずに、彼にはジャーナリズムに徹して欲しい。('03.2.9)

「インドで考えたこと」 堀田善衞 岩波新書 ★★

    敢えて異国の地で、地球の反対側にある印度に思いを巡らすのも悪くはあるまい(この辺にはインド人がたくさんいるので、実は日本にいるときよりもインドは身近な国である)。著者は1956年にインドに行った。『何でも見てやろう』の2年前だが、それとはだいぶ異なっていて、こちらはあくまでも外部の視点から見た思索的な紀行文である。

    「何でも見てやろう」でも書いたが、この本に書かれていることの多くは現在にも通用する普遍性をもっている。昔も今も、我々にとってインドは西欧なんかよりずっと「謎」なのだろう。日本は貧しかった、という。しかしこの時代に既に、日本はアジアの中では圧倒的に豊かな国だったのだ。もっとも、インドのこの貧困は、200年以上にわたる英国の犯罪的な搾取がもたらしたものだ。英国は、インドにおいて搾取以外の如何なることもしなかった。

    やはり、インドには一度行ってみなければならない。「何でも見てやろう」みたいな、あるいは『深夜特急』みたいな旅はもうできそうもないが、こういう旅なら今でも、いや今だからこそできるはずだ。('03.2.2)

「BC!な話」 竹内久美子 新潮文庫 ★★

    この人の著作は賛否両論分かれるところである。特に進化生物学者には頗る評判が悪いらしい。実際読んでみると、まずこの人は文章が巧い。とにかく面白いし、科学的な記述も(その解釈はともかくとして)正確なように思える。そんなに目クジラを立てるほどのこともないんじゃないか、と最初は思った。しかし、レイプがBCだとか、人種間でナニの大きさを比較するとかいう話になると、ちょっと暴走気味という気がしてくる。

    BC(Biologically Correct)というのはPC(Politically Correct)に対して著者が作った造語である。PCというのは、chairmanをchairperson、black peopleをAfrican Americansと言い換えたりする例のアレである。こういうのは言葉狩りみたいな側面があって、敢えてこの風潮に逆らって挑発的で毒のあることを書こうとする著者の意図が見える。しかし、「文化人類学が問題にする“未開”部族などは、進化の袋小路に迷い込んだような人々で人間社会の主流からははずれている」なんてことを平気で書くのは(これは他人の説を引用した部分だが、その後で著者は諸手を挙げて賛成している)流石に無神経すぎるというものだ。

    一つ前の本(「進化論という考え方」)では、竹内久美子の著作は「センス・オヴ・ワンダー基準」に合格しない、つまり科学の成果に対する謙虚さが足りないと批判している。その通りだと思う。('03.1.31)

「進化論という考え方」 佐倉統 講談社現代新書 ★☆

    「あとがき」には、「この本は、(中略)進化論でワクワクしようと思って書いたものだ」とあるけれども、正直言ってあんまりワクワクしなかったなぁ。皮肉にも、著者が本書で主張している「物語」がイマイチ見えてこなかった。科学的な内容についての説明が表面的になってしまうのは「新書」の宿命かもしれないけど、そもそもこういう学問分野(科学哲学?)というのは、他人の説を羅列するばかりでそれ自体としては何ら新しいものを生み出していない、という気が残念ながらしてしまう。

    ただし、巻末のブックガイドは非常に有用。なら最初からそれを読めばいいのかも・・・。('03.1.25)

「何でも見てやろう」 小田実 講談社文庫 ★★★

    実に痛快な紀行文だ。美術館から共同便所まで、何でも見てやろうという精神は気に入った。「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った」という有名な書き出しで始まるのだが、ロクに英語も話せないのに、「まあなんとかなるやろ」という言葉通りにフルブライト留学生の試験を見事にパスする。破天荒な留学生活を終えた後は海を渡ってヨーロッパで貧乏旅行を続けるが、彼は行く先々で現地の女の子とデイトをするのだ。こうでなくちゃイカン。まぁそうはいっても、中近東に入る頃から旅は次第に陰鬱なものになり、インドでドン底を迎えることになるのだが。えらくポップな文体だが、最近の安っぽい放浪記と違って、底には思想が流れている。

    著者が旅に出たのは1958年だった。1958年といえば敗戦からわずか13年しか経っていないわけで、その時間が平成が始まってから現在に至るまでよりもっと短いことを思えば、当時の日本において戦争の記憶がまだいかに生々しいものだったかが想像できるだろう。新幹線もないし東京オリンピックも開催されていなかったし、「ポテトチップ」が如何なるものか彼はわざわざ読者に説明しなければならなかったし、蛇口をひねれば熱いお湯がふんだんに出てくるという点においてアメリカは豊かだと素直に思うことができた、そういう時代だった。この本の凄いところは、そうであるにも拘わらず、今読んでもほとんど違和感がないということだ。当時のアメリカでは「ビート」とかいうよく分からないものが流行っていたらしいし、南部に行けば「白人用」「黒人用」の区別があったし、イランのイスラム革命もまだ起こっていなかった。しかし、やっぱりその時からアメリカ資本主義は行き詰まっていると思われていたし、日本はむしろアジアよりも西欧に親和性があると思われていたし、インドは貧困にあえいでいた。つまり、世界は意外に変わっていないのではないか。あるいはこの40余年の間に一番変わったのは日本だったのかもしれない。この本にはほとんど日本のことが出てこないから、現代でも通用する気がするのだろう。

    この本がやはり歴史的であることに気付かされたのは、蛇足とも言える最後の「再訪」を読んだときだった。著者が再び各国を訪れた理由は、ベトナム反戦運動を広めるためだったのである。著者の現在が気になってインターネットで調べてみたところ(便利な世の中になったものだ)、今もイラク空爆に反対する市民運動などを続けているようである(小田実のホームページ)。放浪する人など、現代日本には掃いて捨てるほどいるだろう。が、放浪後のこの方向性がまさに──現代との最大の違いなのかもしれない。 ('03.1.24)

「日本人はなぜ英語ができないか」 鈴木孝夫 岩波新書 ★★☆

    私は英語という言語そのものには一つも魅力を感じないのだが、実際に英語圏で暮らすようになって、少しは思うところがある。心の中にぼんやりとあったものが、この本を読んで少しはっきりしてきたような気がする。我が意を得たりと思った部分が8割、そうかなァと思ったところが2割といった感じだろうか。

    「これからは国際化社会だから、英語がますます重要になる」とよく言われる。しかし実は、これは反対である!むしろ日本における英語の必要性は減少していると言ってもいい。それは何故かというと、日本語のパワーが相対的に向上したからだ。実際のところ、日本に住んで普通に生活している分には、英語など一言も喋れなくても、また全く読めなくても、一向に困らないだろう。我々は、大学に至るまでの全ての情報を日本語で手に入れることができるという、極めて恵まれた特殊な環境にいるのだ。むしろ日本語は強大すぎる言語であり、周辺の小言語を侵略してきたという事実を忘れるべきではない。

    著者曰く、日本は有史以来、古くは中国、明治以降は西欧、戦後はアメリカという具合に、その時々の最も進んだ国の文化を柔軟に取り入れるのために熱心に外国語を勉強してきた。しかるに今や日本は超大国となり、もはやその必要はなくなった。であるから、読解に重点を置いた「手段言語」として英語を勉強する姿勢を捨て、これからは「交流言語」として情報を発信するための英語を身につけるべきだと主張する。そのためには、むしろ日本式英語を確立すべきで、この点は全く賛成である。要するに発音なんてどうでもよろしい。むしろ日本式発音の方が味があっていいと私は確信している。

    それはともかく、著者は、いまこそ日本は恩返しをすべき時で、日本文化を(特に欧米に)発信するために英語を学ぶ必要があるのだと説く。しかしそれは余りにもお人好しと言うべきで、日本の文化を学びたければ、我々が今までそうしてきたように、彼らが日本語を勉強するのがスジというものだろう。もちろん情報発信の重要性は充分に承知しているが、だからといって日本人全員が英語を喋れるようになる必要は全くない(実際、著者も英語は義務教育から外すべきだと言っている)。「あとがき」で引用されている藤原正彦氏のエッセイがいみじくも述べているように、流暢な英語を喋れることよりも、日本の文化や伝統に精通していることの方が、国際交流にとってはずっと重要なのだ。全くそう思う。

    さて、筆者は「手段言語」としての英語の役割はもう終わったと言うけれど、しかし私の業界(科学の世界)では全くそうではない。科学論文は100%英語で書かれることになっているのだ。それで私は、論文を読んだり書いたりするためには、常に槍玉にあげられる日本の英語教育もそんなに悪くはなかったんじゃないかと思うのだ。受験英語も暗号解読みたいで面白かったし、個人的には、自分が受けてきた英語教育に対してそんなに恨みはない。もちろん英語を喋ることに関しては、もっと早くから始める機会を与えられれば良かったとは思うけれど。

    やっぱりイマドキの若者は、著者が心配するほど欧米に対する憧れも劣等感もないんだと思う。それからこの本の題名は、編集者が売れるように付けたのだろうが、あまり内容を表していない。('03.1.17)

「ドゥルーズの哲学」 小泉義之 講談社現代新書

    これはひどい。この本がトンデモ本であることは予想できたので、まぁ間違い探しをしながら読むのも少しは楽しいかと思ったのだが、想像を絶する支離滅裂ぶりだった。自然科学に対する理解のいい加減さもさることながら、この人の文章には知性というものが感じられないし、不快でさえある。('03.1.6)

「チョムスキー」 田中克彦 岩波現代文庫 ★★

    私の疑問は、「言語の普遍的な理論は存在し得るか?」ということだった。言語について語るとき、常にある特定の言語(大抵は、その学者の母語であるヨーロッパの言語)から出発しなければならない以上、それは普遍的ではありえない。つまり、チョムスキーはたとえばニューギニアやオーストラリア先住民の言語を知っていたかということである。

    その答えはNoである。この本によれば、チョムスキーは言語の多様性なんてものにはハナから興味がなくて、人類という種が共通してもっている「深層構造」なるものの存在をア・プリオリに仮定したのというのである。実際これはチョムスキー批判の書であって、彼のやったことは、構造主義や記述主義のような近代言語学が長い時間をかけて否定してきたヨーロッパ至上主義的な規範主義を、デカルトやらフンボルトといった古色蒼然とした思想のツギハギによって復活させたに過ぎないというのだ。

    ではチョムスキー理論など取るに足らないものなのかというと、それはこの本からは判断しかねる。この本の主題は思想史におけるチョムスキーの位置付けにあって、この手の本にありがちなもってまわった衒学的な言い回しはなく、平易な日本語で書かれている点は大いに評価できる。しかし私が知りたいのは、このチョムスキー理論なるものによってどんな新たな知見が得られるのかということなのに、残念ながら肝心の理論の中身についてはほとんど触れられていないのだ。従って、この理論について全くの素人である私が最初に読む本としてはこれは全く相応しくないものだったし、「チョムスキー」という題名も一般的すぎて宜しくない。

    果たして「普遍文法」なるものは存在するのだろうか?「空を飛ぶ」というときの「飛ぶ」が自動詞だと思ってしまうのは英語帝国主義に毒されているだけで、自動詞と他動詞の区別なんていうのは普遍的ではないのかもしれない。しかしそれでもなお、地球上に存在する言語というのは結構似ているというのが私の印象で、いかなる言語であれその語る内容は「主体が客体に対して何かをする」というパターンに収まると思う。

    現代の言語学では、チョムスキー理論はどのように位置付けられているのだろう。こんなの今どき流行らなくて、そんなことより絶滅しかかっている幾多の言語を記載することの方が遙かに重要だと思うのだが。そういえば、私がまだ受験生だった頃、「変形生成文法」に基づいた英語の夏期講習があったっけ。チョムスキーなんて勿論知らなかった当時の私は、「ナンジャコリャ」と思いつつ結局受講しなかったけど、英語学とかいう極めて特殊(かつ醜悪)な一言語を対象とする学問の中ではこの理論は今でも生き続けているのかも知れない(が、そんなものには興味はない)。('03.1.4)

「いま、島で」 灰谷健次郎 角川文庫 ★★☆

    タイムズ・スクウェアでカウント・ダウンを待っているときに読み始めた。ただ薄くて軽い文庫本をニューヨークに持って行ったに過ぎないのだが、久しぶりに灰谷作品を読むことになった。

    今はどうしているのか知らないが(沖縄かな?)、淡路島の農村で、日々自然やいのちと交歓しながら自給自足の生活を営んでいる筆者が純粋に羨ましいと思った。それに引き替え近頃の自分ときたら、すっかり堕落してしまった。「優しさ」なんて、もうどこかに置き忘れて来ちゃったよ。

    それにしても、読書量が順調に単調減少しているのは頂けない。これからまた灰谷作品にはまりたくても、そうはいかないのがアメリカ暮らしの辛いところ。せいぜい今年は、大量に空輸しておいた本を端から読み潰していくことにしよう。('03.1.2)


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