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年末にどこか暖かいところに逃亡しようと思って、メキシコ随一のリゾート地であるカンクンに行こうと思い立った。
が、私はそんなリゾート地には少しも興味はなくて、私の目的はマヤ人とマヤ語会話を楽しむことにあった。教科書はGary Bevington著 "Maya for Travelers and Students: A Guide to Language and Culture in Yucatan" である。非常に重要なことは、これには別売りのテープがあって、ネイティブ・スピーカーの発音が聞けるということだ。
こういう「真に」マイナーな言語に音声教材付きの初心者用テキストがあるのは驚くべきことで、最近、今度はカナダの北にあるエスキモー(イヌイット)の国、Nunavutに行こうと思い立ってエスキモー語の教材を探したけど遂に見付からなかった。

日本人にとって外国語を勉強するということは、すなわち印欧語族に属するヨーロッパの言語(あるいはせいぜい中国語か韓国語)を学ぶことだろう。世界にはたくさんの国があって、その国ごとに色んな言葉が話されているけれども、国家の公用語を全部合わせてもたぶん200くらいにしかならない(数えていないので正確な数は分からないが)。そういう、法律や学問を記述したり、大学の講義やテレビのニュースで用いられている言語というのは、地球上に存在する言語のサンプリングとしては著しく偏っている。
実際、地球上には約6000の言語があるのだ(たとえば Ethnologue には6809の言語がリストアップされている。ただし、これによると日本語は12ものメンバーを持つ堂々たる「日本語族」の一員となっていて、数え方に少々疑問がある)。地球上にある大部分の言語は基本的には記述されることすらなくて、そういう言語の中にこそ今まで認識していなかった広大な世界が潜んでいるような気がするのだ。

マヤ人は、いうまでもなくアメリカ先住民の中で唯一文字を持っていた、あのマヤ文明を造った人々の末裔である。マヤ語の話者は、現在でもユカタン半島一体に60万人もいる(マヤ語のモノ・リンガルもいる)。マヤ人というのは19世紀に白人を追っ払って独立国家を樹立したこともあって、実は相当イケてる連中なのだ。
ちなみにアメリカ先住民語の中で最大のものは、インカの末裔によって話されているケチュア語で、こちらは700万人もの話者がいる。

そのマヤ語は、発音・文法ともにすこぶる難しい。声門閉鎖音というのがあって、こいつが相当にクセモノである。韓国語の濃音もこの声門閉鎖音なのだが、聞いた感じは全く違っていて、マヤ語の方はまるでコイサン語のクリック(吸着)音みたいに私には聞こえた。要するに、テープを聴いたくらいでは到底真似のできるシロモノではない。

文法であるが、これは抱合語であって、verb stem、auxiliary、pronominal affixesといった要素を正しく組み合わせないと一つの単語すら作れない。つまり、「わたし、明日、そこ、行く、したい」式のトラベル用サバイバル会話術が通用しないのだ!
このverb stemは、動詞が自動詞か他動詞か、動作が完了したかしていないかの4通りの組み合わせ(実際には全部で9通りある)に応じて形が変わってくる。更に悪いことに、pronominal affixes、つまり人称代名詞みたいな奴(ヨーロッパの言語と同じく1人称・2人称・3人称のそれぞれ単数・複数を区別する)が2種類あって、今の4通りの動詞のそれぞれに対してどちらの形を取るかが決まっているのだ。それで、そのうち「B」と無機的に呼ばれているpronominal affixesは完了相の自動詞の主語に使われるが、同じ形が他動詞の目的語としても使われる。
こういうのを言語学の世界では「能格構文」と呼ぶらしい。ちなみに能格構文をもつ一番有名な言語はグルジア語である(それでも充分マニアック)。

「こんにちは」を表す言葉はマヤ語には「ない」らしい。どうしても言いたければ、スペイン語をマヤ語風に発音して"ola"とか"bwenas"とかいう。
「ありがとう」もマヤ語本来の言葉としてはない。一応マヤ語とスペイン語が混じり合った"dyos bo'otik"(Diosはスペイン語で「神」。直訳すると、"God pays it.")というのがあるが、あまり使われないらしい。
外国語を習い始めたときに、まずこういう挨拶言葉がなんだろうかと思ってしまうこと自体が、実はヨーロッパ言語に毒されていることの証拠なのかも知れない。つまりこれは、スペイン語が本来のマヤ語を駆逐してしまったという訳ではなくて、小さなコミュニティーで保守的な暮らしをしている人々にとっては、そもそもそういうバロック的な大袈裟な言葉は必要ないということなんだろうと思う。 実際彼らの普通の挨拶は、"Tu'ux ka bin?"「どこに行くんだい?」といったものであるらしい。
更に面白いことに、「いいえ」はあるが「はい」はない。例えば「これを食べるか?」と聞かれたら「食べる」と答える。
当然のことながらスペイン語の影響は強大で、例えば5以上の数詞はスペイン語で置き換わっているが、まぁこれはよくある現象である。

この教科書をいくら熟読してもマヤ語を操れるようにはなれそうもない。むしろこの教科書を読んで分かったことは、こういう真にマニアックな言語に挑戦しようと思ったら、まずはその地域のメジャー言語を習得しないとつらいということだ。スペイン語を流暢に話せないと、マヤ人にアプローチすることすら覚束ないわけだ。

と、ここまで勉強しておいて、結局カンクン行きのチケットを取り損なってしまい(一人2500ドルのチケットしかなかった・・・)、マヤ語<実践編>は1年後にお預けになってしまった。(02/12/28)

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