読書日記 2019年

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中東イスラーム民族史 宮田律 中公新書 ★★★★☆

競合する中東3民族──アラブ、イラン、トルコ──の通史。
かなりの情報量が詰め込まれているが、コンパクトで読み易い。
この3民族は、現代においてもなお、三すくみの状態にある。知りたかったのはイランの歴史なのだが、混迷する中東情勢を読み解くためには、それぞれに特徴的な3民族の歴史を有機的に結びつけて理解することが必要だろう。

アラブ人とは、アラビア語を話す人々のことである。
アラブ人は、ヨーロッパ人と見間違えるほどに肌の白いシリア人から、浅黒いエジプト人、さらには「黒人」のスーダン人やジブチ人までを含み、遺伝的には極めて多様である。その居住域は、東はイラクから、西は北アフリカのモーリタニアにまで及ぶ。
アラブ人は、632年にムハンマドが亡くなってからわずか30年の間に、エジプト、リビア、肥沃な三角地帯(ヨルダン、イラク、シリア、レバノン、パレスチナ)、アルメニアからアフガニスタンを含む広大な領域を手中にした。
イスラーム世界の中心は、シリアのダマスクス(ウマイヤ朝の首都)と、イラクのバグダード(アッバース朝の首都)だった。繁栄を極めた両都市は、今や戦争によって無残に破壊され、当分訪れることは叶いそうもない。
1258年、アッバース朝がチンギス・ハーンの孫であるフラグによって滅ぼされると、アラブ人は二度と再び統一国家を樹立することはなかった。

イランとは、「アーリア人(=高貴な人)の国」という意味である。
636年、サーサーン朝ペルシアはアラブによって征服される。イラン人はゾロアスター教を放棄して、イスラームの信仰を受容するようになった。
アラブによる支配はおよそ600年間続くが、しかし、イラン文化が消え去ることはなかった。初期イスラーム時代において、アラブに征服されながらも自らの言語を喪失しなかったのはイラン人だけである。それほどイラン人は、自らの言語や文化に対する誇りが強いのだ。
1501年に興ったサファヴィー朝は、アッバース1世の時代に最盛期を迎え、首都イスファハーンは「世界の半分」と謳われるほどに栄華を極めた。

サファヴィー朝と対峙したのは、オスマン帝国である。
スレイマン大帝の最盛期には、バルカン半島はもちろんのこと、ハンガリーを征服してウィーンを包囲し、地中海はまるで自国の湖のようであり、南コーカサス、アラビア半島南部、エリトリア、クリミア半島までを版図に収めた。
イラン=イラク戦争も、もとをただせば、サファヴィー朝イランとオスマン帝国の領土争いに端を発しているのだ。
オスマン帝国では、トルコ人とアラブ人は共存していた。オスマン帝国は、400年にわたってカリフ制度を継承し、イスラーム世界とアラブ世界の双方を外国の侵略から守ったのである。
だが19世紀になると、オスマン帝国は次第にヨーロッパに浸食されていく。カフカス地域は帝政ロシアに併合され、セルビア、ギリシャ、ブルガリアなどが次々と独立。帝国は瀕死の状態となった。
しかし、アラブ人は末期までオスマン帝国にとどまり続けた。アラブ人がオスマン帝国に反旗を翻すようになるのは、20世紀に入ってからである。しかし、アラブ世界は統一することができず、ヨーロッパの思惑によって分断されたまま、現代に至るのである。

歴史に「もし」はないが、もしオスマン帝国が帝国であり続けていたら、あるいは、もしイランのカージャール朝がイスラームに対してもう少し寛容な政策をとっていたら、世界における中東の存在感は今よりもずっと大きかったはず・・・と思うのだ。(19/08/24読了 19/10/09更新)

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