2005年 43冊

(★〜★★★はお薦め度
「四度目のエベレスト」 村口徳行 小学館文庫 ★★☆

    高所カメラマンという職業。8000mを超える頂に登頂して、無事に生還するだけでも並大抵のことではないのに、そういう「死の領域」で芸術性を追求した写真を撮影する。青と白だけの世界。美しい…。空の、どこまでも深い青が印象的だ。エベレストの頂上に向けて、行列を作るクライマーたちの姿にはちょっと眩暈がするが。

    ヒマラヤ登山など、もはや冒険ではない。とはいえ、エベレストの頂きに到達できた日本人は(生還できなかった者も含めて)、2005年夏の時点でまだ113人しかいない(そのリストはこちら)。4回登頂はもちろん最多である。

    さて、今年の読書は──。ここまで良いペースできていたので、今年は50冊に届く勢いかとも思われたが、終盤思いがけず大失速。12月は記録ゼロに終わり、去年の記録を1冊しか更新できずに終わってしまった。とほほ。('05.11.28)

「いのち 生命科学に言葉はあるか」 最相葉月 文春新書 ★★

    クローン羊とか、ES細胞とか、生命倫理とか、そういうことに関する対談集。こういうのは誰と対談するかが命だが、その点はバランスが取れていて良かった。本書のベースになった、著者によるサイト「受精卵は人か否か」はこちら。しかし、正直言って、こういう問題よりもっと重要なことがあると思った。

    著者自身が、半ば自己否定的に「戦争で奪われてゆく生命、飢餓や感染症で失われてゆく生命と比べれば、本書が採りあげてきたような『いのち』はなんとぜいたくかと思われるだろう」と書いているが、まさにその通り。「受精卵は生命だといってES細胞の研究を厳しく規制していたブッシュ大統領が、その舌の根の乾かぬうちにイラクの人々を攻撃し始めた」のであり、「生命の尊厳」なんて言われてもシラケるばかりだ。島薗進氏の次の言葉には深く首肯した。

    生命科学は、世界の富裕地域のゆとりある生活をもっと高めたいとうタイプの欲求であって、世界全体でどういう医療が必要かということに関しての配慮が薄くなっている。
    ('05.11.20)
「アメリカ外交とは何か」 西崎文子 岩波新書 ★☆

    「同時多発テロ」からアフガニスタン・イラク侵略に至る流れを、歴史的文脈から読み解こうとする試み。前半は些か教科書的で退屈だった。ブッシュがイラク攻撃を仄めかした国連での演説が、ウィルソン(第一次大戦後の国際連盟の設立を提唱したことで有名)をパクッたものである、という部分でやっと前半の存在意義が明らかになる。結局アメリカは、建国以来、性懲りもなく同じことを繰り返してきたのだ、と思う。そして、現在の米国は振り子の一方の端に激しく振れているように見えるけれども、米国の民主主義は本来強靱な健全性をもっていて、実際に国内からの異議申し立ても盛んに行われていることに希望を見出して終わる。

    しかし私は、ちっとも希望を感じることはできなかった。本書を読んで感じた違和感は、どこに由来するのだろうか?結局、ここに書かれている歴史は、アメリカ内部、もっと言えばアメリカ政府の視点から見たアメリカ外交の歴史なのだ。イラク攻撃にしたって、アメリカ政府に言わせればそれなりのロジックがあってやったことだ(とはいえ、イラク攻撃は、政策的な面から見てさえ実にまずい選択だった)。しかし私には、それを「理解」することにさほど意味があるとは思えない。そこには、虐げられた者の視点がすっぽりと抜け落ちているのだ。

    もっとも、我々が学校で習ってきた世界史というのは、欧米の視点から見た世界の歴史だった(単に、記述が欧米に偏っているというだけではない)。いい加減にこの歴史観から脱却して、世界史を裏側から、「敗者」の側から見ようとする試みがもっとあってもいいように思うのだが。('05.11.6)

「テロ後 世界はどう変わったか」 藤原帰一 編 岩波新書 ★★

    これは、12人の執筆者による、いわば雑文集である。「テロ後 世界はどう変わったか」と銘打ってはあるが、2002年2月の出版なので、実際のところ世界はまだあまり変わっていなかった。それから3年間の間に、米国の侵略によってイラクはいわば内戦状態に陥ったし、容易に思い出せる範囲内だけで考えてみても、世界各地で随分多くの「テロ」事件が発生した。

    いわゆる「同時多発テロ」直後に書かれたこれらの文章を読んでみると、各人によってかなり切り口が異なっていると感じる。多様性に対する寛容こそが文明なのであるから、この事件に対して自分とは違う考えを持つ人の意見に耳を傾けることも必要ではあろう。とはいえ、私にとっては、坂本義和・西谷修・岡真理の最初の3氏の文章はとても迫力があって印象的だったし、杉田敦の視点は面白いと思ったが、それ以外はどれもイマイチだった。('05.11.3)

「「対テロ戦争」とイスラム世界」 板垣雄三 編 岩波新書 ★★☆

    イスラム世界は、東はインドネシア・東トルキスタン(新彊ウイグル)から西は大西洋岸のモーリタニア・セネガルに至るまで、実に広大な地域に広がっており、中央ユーラシアとアフリカ大陸の北半分はイスラム一色に塗りつぶされている。日本は歴史的にイスラムとの関わりが少ないが、それにしても、我々はイスラム世界に対してあまりにも無知すぎる。

    2001年9月11日に起こった例の事件(いわゆる「同時多発テロ」)とは一体何だったのか。私はその後しばらくアメリカに滞在していたのだが、それに引き続く米国のアフガニスタン・イラク侵略によってすっかり絶望的な気分になり、敢えてこの問題について深入りすることを避けてきた。しかし、最近どうも、日本を含めて世界が不気味な方向に向かっているように思えてならないのだ。日本における、唖然とするほど急激な世論の変化も、この事件の一つの帰結であるように思える。「9月11日を境に世界は一変した」というのがアメリカの巧みなレトリックだったとしても、実際に世界は目に見える形で(嫌な方向に)変わってきていると思う。

    ではどのように変わったのか?本書には、次のように述べられている(p.226)。

     ロシアは、今後欧米の目をまったく気にすることなくチェチェンの独立運動を弾圧できるようになった。中国もウイグル人の活動家を即決裁判で好きなだけ処刑することが可能になり、チベットでの抑圧の自由度も高まるであろう。アフガニスタンではタリバーン政権の崩壊が決定的になった十二月初め以来、イスラエルのシャロン首相がパレスチナ自治政府を「テロ支援団体」と認定し、これに対して大々的な武力攻撃を開始したのは、最もわかりやすい例である。イスラエルがアメリカから自制を要請されない状況になっただけなのだ。
     より大きなテロリズム認定力をもつ国家群が、相互にかばい合いながら内部の矛盾を圧殺する方向に動き始めたといえる。
    最近の世界情勢と、その中での日本の進むべき道については、色んな人が色んなことを言っているようである。私も、そろそろじっくりと考えてみようと思っている。

    本書について言えば、事件から僅か4ヶ月後に出版されたこともあるが、多数の著者による分担執筆なので、全体としての焦点がぼやけてしまったのが残念。私としては、編者の考えをもっと聞きたかった。('05.10.27)

「難民キャンプの子どもたち」 田沼武能 岩波新書 ★★☆

    本書に収められた写真を見ると、世界に横たわる圧倒的な不公平に愕然とする。それどころか、21世紀になって格差はますます広がっていくばかりだ。どこぞの国では、自力で歩けないほどに醜く肥満した人がウヨウヨいるというのに。

    そう、子供たちは、生まれてくる親も国も選べないのだ。それでも著者は、子供たちの瞳の輝きに希望を見出す。「平和がいちばん」、それだけだ…。

    ただ、最近どうも、忙しすぎて感情が干からびてしまったのか、そう思ってはみても、心のどこかで所詮は他人事だと思っている自分がいるような気がして、なんだか危機感を覚える。 ('05.10.21)

「きけ わだつみのこえ (第一集)(第二集)」 日本戦没学生記念会 編 岩波文庫 ★★

    あまりにも有名な、日本戦没者学生の手記。恥ずかしながら、この歳になってやっと読了した。これらの手記は二十歳そこそこで書かれたものであり、当時の大学生はかなりのインテリ層だったとしても、その教養の高さは現在とは比べものにならない。極限状態にあってなお学問に対する真摯な姿勢を失わない彼らの姿には、心を打たれる。

    第一集を読んでいると、あの戦争中にこんな考え方をした人がいたのか、と意外に思う。しかし、「あとがき」に書かれているように、実は編集の過程でかなりのバイアスがかかっているのだ。第二集を読むとだいぶ印象が変わるのだが、こちらの方が多数派だったのだろう。いずれにせよ、これはあの戦争を内側から捉えた貴重な記録であり、これを読むことは日本人の義務である、とさえ思う。

    戦後60年経って、忌まわしい戦争の記憶は日本人から失われつつある。最近の世の中の動きが非常に危険な気がするのは、私と同じかその下の世代の人たちが右傾化してきているように感じるからだ。戦争や、軍隊というシステムが一体どういうものなのか、それを知るところから議論を始めないと、我々は決して前進できないと思う。('05.10.5)

「アラスカ 風のような物語」 星野道夫 小学館文庫 ★★☆

    あまり快適とは言えない、日本に帰る飛行機の中で読み始めた。写真が多くて読み易いということもあるけれど、機内で一気に読んでしまった。

    なんといっても動物の表情がいい。アラスカというと厳しい自然を思い浮かべるけれども、ここに写し出されているのは、むしろ自然の優しさである。自然は征服するものではなく共存すべきものであるということを、頭でなく感覚で教えてくれる。写真の持つ力というのは凄いと思う。

    アラスカの原野には、先住民であるイヌイット、アリュート、トリンギット、アサバスカの人たちだけではなく、自然と共存しながら生きる白人たちもいる。著者が、先住民にもそういう白人たちにも同じ優しさを注いでいるのが印象的である。アラスカの、特にその先住民たちの現在はあまりにも多くの問題を抱えているけれども、それでもなお、この本は希望を感じさせてくれるのだ。('05.9.26)

「氷壁」 井上靖 新潮文庫 ★★☆

    これは、山と俗世間と恋愛が織り込まれた、よくできた小説である。今から半世紀も前に書かれたものとは思えないほど、今読んでもちっとも違和感がない。ただ女性の言葉遣いが違う。もうこういう丁寧な話し方をする女性は絶滅してしまった・・・。難を言えば、二人の登山家が惚れ込んだ美那子という人物は、それほど魅力的には思えなかった。

    このナイロンザイル切断事件というのは、1955年に実際に前穂東壁で起こったものらしい。その切れたザイルの実物は、ここにある!

    さて、この小説の舞台である前穂東壁というのは、このまえ穂高に登ったとき見たはずだが・・・と思って写真を整理してみると、どうやらこれがその前穂東壁らしい。そのときは何も感じなかったのだが、行く前にこれを読んでおけば良かった。('05.8.17)

「世に棲む日日 (一)〜(四)」 司馬遼太郎 文春文庫 ★★☆

    アメリカに来て、ずっとこれを読んでいた。久々に司馬遼太郎の長編を読破した。やっと多年の宿題を果たせた感じだ。嗚呼しかし、『竜馬が行く』を読んだときのあの新鮮な感動は、決して超えられないのだった。それはそうだろう、思えば、それを読んだのはもう8年も昔のことだった。

    吉田松陰も高杉晋作も、20代にして斃れたことを思えば、それぞれが歴史に遺した足跡の大きさは驚異的という他ない。現代は、幕末とは比べものにならないほど世の中が硬直化してしまったとはいえ、人間が圧倒的に幼くなったことも事実だろう。身分制社会というのは、自分が何をすべきかが生まれながらにしてある程度決まっていたから、逆に成し遂げられることも大きかったのかもしれない。その代わり、

    おもしろき こともなき世を おもしろく
    という高杉晋作の辞世の句が示しているように、当時の人生は今よりもずっと苛烈で、「人生を楽しむ」なんていう感覚はなかったのだろう。('05.8.9)
「傷だらけの百名山」 加藤久晴 新風舎文庫

    「百の頂きに百の怒りあり」というけれど、この著者は単に文句を言っているだけだ。山小屋の食事が質素すぎると文句を言い、豪華すぎると山には似合つかわしくないといってまた文句を言う。他の登山者にはモラルがないと罵るくせに、自分は個室で消灯後も酒を飲み、大イビキをかく。自分こそは「本当の山好き」と思っているみたいだが、自分だってメジャーな山域に群がる幾多の登山者の一人に過ぎないことを自覚していないんだろうか。乱開発が批判されるべきは当然だが、本書からは、その肝心の部分が伝わってこなかった。野口健氏による解説の方がよっぽど説得力がある。('05.7.23)

「日本の英語教育」 山田雄一郎 岩波新書 ★★

    元来、教育には興味がなかった。いかにして自分が英語を習得するかが問題なのであって、日本人全体の英語のレベルがどうであろうと知ったこっちゃないと思っていた。しかし、小学校に英語教育を導入するなどという話を聞くと、自分の子供の問題であるので、もはや無関心ではいられない。

    いまの日本の英語教育は危うい、という著者の分析には納得する。文部科学省は、英語教育を通じてどのような日本人を育てようとしているのか、理念なきままにその場しのぎの改革を行おうとしている、という。例えば、文部科学省は「挨拶や対応等の平易な会話」ができることを目標に据える。しかしながら、私自身の経験を言えば、挨拶というのは高度に社会的・文化依存的な行為であって、実は、専門的な議論をするよりもずっと難しいのである。それもコミュニケーション能力の一部には違いないけれども、具体的な情報の伝達というところからはむしろ遠いところにある。

    その問題提起には大いに賛成するのだが、それでは、どのような理念に基づいて英語教育を行えば良いのだろうか。その肝心の部分について、著者の主張は今ひとつはっきりしなかった。とはいえ、これはあまりにも大きな問題ではある。

    小学校英語に関していえば、「語学は早ければ早いほど良い」というのは間違いなく事実である。だからといって、ただでさえ少なくなった小学校の授業時間を削って英語に回すべきだろうか。それでも効果があればよいが、日本中の小学校で教えるのに足るだけの、良質な英語教師がいるとはとても思えない。私の一つの案は、中高の英語の授業は、日本人教師が英語を使って行うというものである。英語がコミュニケーションの道具であることを、まず教師自らが示せば良い。そして、我々は発音至上主義から脱却しなければならない。我々が目指すべきなのは、アメリカ英語を真似ることではなくて、日本式英語を確立することではないだろうか?('05.7.10)

「中国大陸 (上)悠久の山河 (下)天空の聖山」 白川義員 小学館文庫 ★★★

    何といっても圧巻なのは、下巻のヒマラヤ・カラコルムである。特にこの紫色は、息を呑むほど美しい。地球上にこんな色があったのか、と思ってしまう。この圧倒的な迫力は、これが命がけでなされた仕事だからだろう。たった一枚の写真を撮るために、どれほどの労力が懸けられているかを思え。一体自分は、これほどまでに生命を燃焼させて何かを成したことがあるだろうか?

    この本のオリジナルは、3万円以上もする超豪華なものらしい。それが1,600円程度で見られるのだから幸せである。

    現在中国と呼ばれている領域内には、実は高い山が沢山ある。それぞれ世界第一・第二の高峰を擁するヒマラヤとカラコルムは、ともに中国の国境線上に位置している(ただし、チベット人とウイグル人の居住地にある)。それに加えて、パミールも、天山も、ミニヤコンカもある。しかしその反面、漢人の居住地内にあって、漢人によって名山と讃えられてきた山々──たとえば、中国五大名山(東岳泰山、西岳崋山、南岳衡山、北岳恒山、中岳嵩山)──をさほど美しいと感じないのは、その風景があまりにも大陸的で、つまりは乾燥しすぎているからだろうか。('05.7.9)

「ケプラー予想」 George G. Szpiro 新潮社 ★★

    ケプラー予想(Kepler's conjecture)というのは、「3次元空間に球を詰め込むとき、その密度は π / 3 √2(約74.05%)を超えない」というものである。この最高密度は、大学受験の化学で習った「六方最密格子」に球を配置したときに達成される。それは要するに、八百屋がオレンジを積み上げる方法である・・・というのが常套句なのだが、日本の八百屋さんはそういう積み方はしない!それはともかく、その証明は、ケプラー以来400年ものあいだ幾多の数学者の挑戦を退けてきた超難問だったが、1998年になってThomas Halesによって遂に解決された、というお話である。

    六方最密格子が本当に「最密」であることは、実はそんなに自明ではない。六方最密格子では、一つの球は3つの球がつくる窪みにはまって正四面体の頂点に位置しているが、その球は同時に4つの球の窪みにはまって正八面体の頂点にも位置している。この正八面体内部の空洞部分が空間を無駄遣いしているように思えるのだ。実際のところ、「六方最密格子」は「面心立方格子」と全く同じものなのである。

    また、六方最密格子では一つの球は12個の球と接触しているのだが、正二十面体の頂点に球を配置することによっても、一つの球に12個の球を接触させることができる。ところが、後者の配置をとった場合、12個の球の間には隙間があって、動かすことができるのだ。(実験してみると分かるのだが、この隙間は思いのほか大きい!)だから、その隙間をうまく寄せ集めれば13個めの球を押し込めるかもしれない、と考えるのはそんなに馬鹿げたことではない。(実際は、一つの球に同時に接触できる球は最大12個であること、つまり、3次元におけるkissing numberが12であることは既に証明されている。なお本書によると、4次元より高次のkissing numberは8次元と24次元を除き未解決である。しかしこのサイトには、9次元までの厳密なkissing numberが載っている。)

    さて、肝心の証明であるが、これが何とも期待外れなのだ。5,094通りの可能性をコンピューターで虱潰しにチェックしていくという、有名な「四色問題」と同様な手法で「証明」されたのだ。たとえ専門的な数学者がそれを見ても、絶対的に正しいかどうかは判定できないというシロモノなのである。証明とは、脳の中で論理の鎖が完結することだとすれば、そんなのでは証明したとは言えないだろう。しかし一方で、場合分けの数が増えただけのことであり、程度の問題に過ぎないという気もする。フェルマー予想に対するワイルズの証明は、従来の証明の範疇に入るものであり、ケプラー予想の「証明」とは格が違う。もしかしたら、数学の世界には、もはやコンピューターに頼らずに解ける問題は残っていないのかもしれない。

    なお、ヘールズによるケプラー予想の証明(297頁ある)は、彼のウェブサイトから手に入れることができる。('05.7.4)

「水族館の通になる」 中村元 祥伝社新書 ★☆

    最近よく子供を連れて水族館に行くのだが、いつも混雑している。ということはそれだけ人気がある訳で、水族館も日々進化し続けているようで感心する。

    この本はしかし、文体が軽すぎていただけない。内容は悪くないのだが…。世界最大の水族館が沖縄にあるとは知らなかった(→こちら)。('05.7.4)

「幼児期」 岡本夏木 岩波新書

    新書というものは、未知のフィールドを囓ってみるのには実に手頃である。で、発達心理学とか、子育て論といった辺りに興味があったんだが、そのどちらに対しても何ら満足のいく解答は得られなかった。形而上学的な叙述が続き、具体例に乏しい。('05.6.23)

「少数言語をめぐる10の旅」 大角翠 編 三省堂 ★★

    バンツー系の言語であるタンザニアのハヤ語、ユカテク語・ツェルタル語など30の言語からなるマヤ諸語、幻のチュルク系言語・エイヌ語、中国少数民族・ヤオ族の言語であるミエン語、オーストロネシア語族の故郷・台湾原住民諸語、ニューカレドニアのティンリン語、既に死滅したオーストラリア原住民語・ワルング語、やはり既に死滅した樺太アイヌ語。こういった、言語マニア垂涎のスーパーマニアック言語が次々に登場する。こうしてみると、ヒトの言語というものは、多様である以前に実によく似ていると思う。

    各章ごとに別々の著者によって書かれていて、玉石混淆。どちらかといえば論文集のような趣で、説明が専門的であるのはいいとしても、体系的でないので単なる言語マニアには辛いものがある。しかし、こういう本が存在すること自体は評価できる。

    フィールドワークの話は楽しい。こういう、地球上に残された真にマイナーなエリアを訪れてみたいと思うけれど、その願いは(フィールドワークにでも参加しない限り)決して叶えられそうにない…。('05.6.14)

「利己的な遺伝子」 Richard Dawkins 紀伊國屋書店 ★★☆

    本書は、必ず目を通しておくべき古典である。内容は高度で多岐にわたるが、比喩が実に巧みで分かり易い。翻訳も誠実で、しかもこなれている。ただし、通読するにはそれなりの根気が要る。

    ドーキンスは、

    私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には個体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、つまり遺伝子である。
    (p. 30)と言っている。すなわち、本書の主張は大まかに言って二つある:一つは、淘汰の単位が種や集団ではないこと、つまり群淘汰説の否定である。もう一つは、「淘汰の単位は個体でもなく、遺伝子である」という部分である。

    第一の主張は、ひたすら女王に奉仕する働きアリとか、自らの危険も顧みずに警戒音を発する鳥といった一見利他的な行動が、ダーウィニズムと何ら矛盾しないということである。このことは今日では広く受け入れられている。しかし、1976年に本書の初版が出版されたことによって、それは広く受け入れられるようになったようである。私は、この点こそが本書の真価であると思う。

    一方、第二の主張に関しては、大きく誤解されているように思う。一つの誤解は、ドーキンスが遺伝子万能主義者、決定論者であるというものだが、彼はそんなことは一言も言っていない。もう一つの誤解は、ドーキンスの「遺伝子」という言葉の使い方によるものである。彼は、実はこの言葉を本書できちんと定義していないのだ(あるいは「自然淘汰の単位」として定義しているが、これでは堂々巡りである)。少なくとも通常の使い方とは異なっている。それは「遺伝子の総体」とでもいうべきものであって、本書の題名は『利己的なゲノム』とでもした方が実情に近かったかもしれない。従って、ドーキンスの主張は、本質的には、個体が淘汰の単位であるという従来の考え方と何ら違いはないように思う。(第2版で新たに付け加えられた最終章で、個体ではなく遺伝子に働く自然淘汰の例として、meiotic driveが挙げられている。しかし、これは極めて特殊で人工的な例である。)それはまさしく、「まえがき」にあるネッカー・キューブのごとく、等価なものを二つの見方で見ているにすぎない。

    グールドは、『パンダの親指』の中で本書を批判して、ドーキンスが「西洋式の科学的思想につきまとっている悪習──原子論、還元主義、決定論などと呼ばれる姿勢」に毒されているなどと言っている。しかしこれは、まさに上で述べた誤解にもとづくものである。そんなことは本書を読めばすぐに分かりそうなものだが、グールドほどの人物がこのような誤りを犯すとは驚きである。グールド vs. ドーキンス論争とかいうのも、あまり実があるようには思えない。

    なお主題からは少々それるが、やはり第2版で新たに付け加えられた、ゲームの理論について解説した第12章は白眉である。全般的に言って、本書の評価は、本質的でない部分においてなされていると思った。そんなことよりも、高度な内容を巧みに噛み砕いて解説する、著者の手腕にこそ酔うべきなのではないか。('05.6.8)

「海辺のカフカ (上)(下)」 村上春樹 新潮文庫 ★★

    パラレルに進行してゆく二つのストーリーが絡み合い、交錯して、最後に一つの壮大な美しい物語へと収束してゆく──、というのを期待していたんだが…。中盤から終盤にかけて、ハルキ・ワールドにどっぷりと浸り込み、「おぉ、これぞ小説の醍醐味」などと思う。ただ、ラストがなぁ…。なんかこう、この本に出会えて良かった、と思わせてくれるような終わり方ではなかったなぁ。どうもイマイチ釈然としないものが残った。('05.5.28)

「ヒトゲノム完全解読から「ヒト」理解へ」 服部正平 東洋書店 ★★

    ヒトゲノム計画の歴史、ヒトゲノム中の遺伝子数の話(22,000個しかない!)など、講義のネタとして使わせてもらった。2004年に発表されたヒトゲノム完全解読の論文に基づいているので、現時点での最新データが盛り込まれている。本書は一般の読者を対象にしていることになっているが、読みやすさや面白さよりも正確さを期しているので、むしろ研究者が知識を整理するのにいいように思う。少なくとも私にとっては非常に有益だった。('05.5.13)

「百名山の人 深田久弥伝」 田澤拓也 角川文庫 ★★☆

    深田久弥という人物は、そんなに凄いことをした訳ではない。作家としては二流以下、登山家としても、ヒマラヤの7000メートル峰に挑み、5000メートル地点で敗退した程度。にもかかわらず、彼の人生は確かにドラマに満ちている。

    深田久弥は「オロッコの娘」で文壇デビューしたことになっていて、戦前は売れっ子の作家だった。でも実際のところ、売れた小説は全て、病身で外出もままならない妻の北畠八穂が書いたものだった(深田自身が書いた、例えば『わが山山』は全くの駄作)。深田は、妻に書かせた小説を自分の名前で発表し、その一方で一度ならず他の女を孕ませたという。鬼畜である。

    ここまで読むと、深田久弥の印象は徹底的に悪くなる。しかし彼は、編集者としては一流で、本当に良い作品を見抜く稀有の才能をもっていた。懸賞作品の落選作の中から北畠に目を付けたのも深田だったし、深田がいなければ、中島敦の作品が世に出ることはなかったという。

    本書を読み進めていくと、再び深田への好感度が上昇していく。彼には、誰からも愛される大らかさがあったのだろう。そして、彼の名を後世に永久にとどめることになった「日本百名山」は、正真正銘彼の手になるものなのだから、まぁいいじゃないか。「日本百名山」が、確かに名著なのは、山への愛が溢れているからだ。実に見事な選定で、これはやっぱり深田にしか書き得なかったのだと思う。

    ちなみに、深田久弥が後半生に住んだ家は、私の実家から歩いて10分と離れていないらしい。ご子息の小学校、中学校、高校は全て私と一緒。そして、深田が茅ヶ岳頂上直下で急逝したその年に、私が誕生したという不思議な縁がある。('05.5.5)

「ケータイを持ったサル」 正高信男 中公新書 ★☆

    サル学で培った研究手法を用いて女子高生の生態を調べるというのは面白くなくもない。しかし、始めに結果ありきというか、結果がキレイ過ぎて逆に胡散臭いような気がした。

    最終章は面白い。「家庭に縛り付けられ、社会進出の機会を奪われた哀れな存在=主婦」というのはフェミニズムのつくり上げた幻想、デッチアゲである。主婦というのはむしろ憧れの対象であって、そもそも昔は、働かずして食っていけるなんていう結構な立場はあり得なかった。また、子供は作るものではなく、できるものである。我々は「子を持ちたい」という欲求を本能としてもっているわけではない。だから、少子化が進行するのは必然であり、決して食い止められない──。ナルホド、確かにそうかもしれない。

    ただし、全体としては、本書のメッセージはイマイチはっきりしない。日本人のサル化が進んでいるとしても、だから何だというのだ?So what?('05.4.21)

「2万5000分の1 地図の読み方」 平塚晶人 小学館 ★★

    著者の言うことは一々ごもっともである。昭文社の「山と高原地図」は良くできていて非常に便利であるが故に、それに依存してしまう。山を、麓とピークを結ぶ登山道のネットワークとして一次元的に捉えてしまう。しかし地形図が読めれば、山を三次元的に捉えることができるのだ。それは文字通り、山登りに新たなディメンジョンを付け加えることになろう。我が身を振り返ってみれば、いつも山道は無我の境地で黙々と歩いているのみなので、道中のことなどほとんど覚えていない。だから、著者のいう「等高線のうねりを見ている内に、地形の様子や、そのときその場所で自分が考えたことまでが、鮮やかに蘇ってくる」というのは驚きである。

    本書を通読すれば地形図が読めるようになった気がするが、それは錯覚である。本書はきっかけを提供するに過ぎない、というのも全くその通りだろうと思う。実践あるのみなのだ。('05.4.19)

「言語を生みだす本能 (上)(下)」 Steven Pinker NHKブックス ★☆

    本書は、チョムスキー理論の格好の入門書、と友人に勧められて読んだのであったが、予想をかなり下回る面白さだった。理由は以下の通り。

    第一点は、内容に関してである。そもそも、「言語を生み出す本能」というけれど、言語が本能、つまり遺伝子によって規定されているなんてことは言われなくても分かっている。むしろそっちの方が常識的な考え方であり、それ以外の説明が思いつかない。この本が出版されたのは10年以上前であるが、その当時にはこの考え方は驚きだったのだろうか?生物学的な記述のいくつかは時代遅れになっていて、例えば「言語の遺伝子」は、実は既に発見されている(FOXP2という)。

    それで、本書を読めばチョムスキー理論とやらの素晴らしさが分かるかというと、これも期待はずれだった。人類の言語は、主語があって述語がある、名詞があって動詞がある、入れ子構造になって無限の文を作ることができる。そんなの当たり前じゃないか!!これが普遍文法だと言われても、何ら新しいことが分かった気はしない。何かもっと凄いことを言っているのかもしれないが、「Xバー理論」などというおよそセンスのない名前が付けられたシロモノも、我々が中学校で習った英文法とどこが違うというのか。そして、いくらこうやって英文を分解して見せてくれても、これが日本語でも自然なことなのかは決して判断できない。つまり、自明でない部分に差し掛かった途端に英語に特異的な世界に入り込んでしまうのだ。

    最終章で著者は、マーガレッド・ミードなどの人類学者による相対主義を批判している。しかし文化相対主義は、人種間の優劣、つまり差別を正当化するために利用されてきた決定論を否定するところから生まれた訳であり、相対主義が遺伝よりも環境を重視するからといって、その点だけを捉えて批判するのは揚げ足取りのように思う。そもそも、あらゆるものごとには普遍性と相対性(多様性)があるのであって、どちらに注目するか、という問題に過ぎないのではないだろうか。私としては、言語に関して言えば、普遍性よりも多様性の方がよっぽど面白いと思うんだが。

    全般的に言って、本書で述べられていることに賛同はするけれども、しかしあまり知的興奮を覚えることもなかった。

    第二点は、翻訳に関してである。本書には、多義的な文(つまりダジャレ)や、ちょっと奇妙な文、赤ん坊が発する文などが山ほど出てくる。それらの例文が中途半端に翻訳されているため、原著の味わいが大幅に失われてしまっている。本書は、例文にはすべて原著の英文を載せ、それに詳細な注釈を付けるという風にすべきであったと思う。「訳者あとがき」には「いちいち英文を添えれば学問書としては厳密になるかもしれないが、本書を手にとってくださる方が『ああ、めんどくさい』と途中で投げ出すようでは、万人の言語に対する好奇心を満たしたいという著者の意図に反してしまうだろう」とあるが、著者は始めから「アメリカの万人」しか対象にしていない。本書にちりばめられている一般大衆向けの軽いネタはアメリカ文化に非常に強く依存しているので、日本人が読んでもちっとも面白くないのだ。もう一つ文句をいえば、アルファベットを縦書きで書かれると非常に読みにくい。('05.4.12)

「沖縄・先島への道 街道をゆく6」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★☆

    印象に残った言葉をいくつか。

    軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない[略]。軍隊は軍隊そのものを守る。
    明治後、[沖縄が]「日本」になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年そのことを考えてみたが、圧倒的におなじになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える。
    先島(八重山諸島)では、16世紀頃まで木器や石器、神話と伝説の時代が続いた。その理由は、沖縄では砂鉄を産しなかったからだ。先島の夢の時代は鉄器の到来とともに去り、琉球王朝の支配下に組み込まれる。以降先島は、薩摩、日本、アメリカによって搾取され続けることになる。

    竹富島、西表島、波照間島、与那国島。う〜ん行ってみたい。('05.3.26)

「ミニヤコンカ奇跡の生還」 松田宏也 山と渓谷社 ★★★☆

    壮絶、としか言いようがない。感動した。

    一言でいえば、パーティーの力量不足がこの遭難を引き起こしたわけであり、著者自身も多少非難めいたことを言っている。しかし、ここに描かれた体験は、もうそういうことを全て超越してしまっている。生きる──それ以外に、何があろう?なぜ命を粗末にしてはいけないか、と問われれば、その答えはきっとここにある。('05.3.11)

「生還──山岳遭難からの救出」 羽根田治 山と渓谷社 ★★☆

    7人の登山者が体験した、遭難から救出までのドキュメント。骨が露出するほどの重傷を負い、傷口に蛆がわきながらも救助を待ち続けた話、マヨネーズで飢えをしのいで17日間山中を彷徨した話など、かなり壮絶である。しかしこれは、ヒマラヤ遠征をするような尖鋭的なアルピニストではなく、趣味で山登りを楽しむ普通の人の身に起こったことなのだ。いつ我が身にもこんな事態が降りかかってくるか分からないのだから、これは、プロの冒険家の遭難物語よりももっと参考になる。遭難したときに助かる方法はただ一つ。体力の消耗を避け、ひたすら救助を待つことだ。他力本願である。ただし、遭難してしまえば、たとえ救出されたとしても社会的なダメージを被ることになる。どの段階で遭難したことを自らに納得させるか、それが問題だ。もちろん、ケータイで安易に救助を要請するようなことは慎むべきだし、それ以前に遭難のリスクを最小限に抑えるよう周到に準備すべきであることは言うまでもない。

    思わず目頭が熱くなる箇所もあり、身につまされる。本書に登場する7人に共通することが一つある──それは、「こんなひでぇ目に遭ったんだから、もう山はこりごりだ」とは誰も言わないことだ。みんな、性懲りもなく再び山に向かう。山を志すものは是非とも読んでおくべき一冊。('05.3.6)

「ねこは青、子ねこは黄緑」 Patricia Lynne Duffy 早川書房 ★★

    著者は文字に色が付いて見えるという共感覚者。これぞ、『共感覚者の驚くべき日常』を補ってくれる共感覚の博物学だ、と思って大いに期待しつつ読んだのだが。前半は面白いが、後半は他の本からの引用ばかりで退屈。「海面に映ったその光景全体がきらめくのを見た時、文字どおりサテンを身にまとったような感じがし」て、シャッターを押すタイミングを教えてくれた、なんてのが共感覚だと言われてもなぁ…。そもそも芸術家たるものは、外界の認識の仕方が普通とはちょっと違うから芸術家なんじゃないのか?週や年が色つきの帯として「見える」とかいう話も、共感覚者の間ではそれなりに普遍性があるようだが、サイエンスの対象にはなりにくそうな話でそんなに好奇心をそそられない。

    共感覚の研究というのは欧米では結構盛んなようで、Natureの今週号には、和音の音の間隔→味という新しいタイプの共感覚者を見つけた、とかいう論文が載っていた。一方、どうやら日本には共感覚の専門家はいないようだ。無文字社会では文字→色タイプの共感覚はありえないことを考えれば明らかなように、実は共感覚というのはひどく文化に依存した現象である。日本語は世界で最も複雑な表記体系を持っているので、文字→色タイプの共感覚者は日本人ではそもそも少ないのかもしれない。('05.3.3)

「南極大陸単独横断行」 大場満郎 講談社文庫 ★★

    99日間かけて南極大陸を歩いて(実際は、パラセールを利用してスキーで滑走して)横断するというのは、大変なことには違いないけど、カネと時間さえあればできないことではない。たった一人で、と言うけれど、南極専門のツアー会社を利用しているし、南極にいても携帯電話でいつでも日本と連絡が取れる。南極点にはドームが建っていて、中でピザが食べられる時代なのだ。もはや「実現可能かどうか分からない」真の冒険は地球上には残されていないので、あとは環境問題などの付加価値で勝負するしかないところに21世紀の冒険のつらさがある。

    まぁそれでも、本書は結構面白くて、本当にゴールできるのかハラハラさせられる。大場さんは農業出身で、29歳から冒険を始めたという遅咲きの冒険家。('05.2.28)

「性転換する魚たち」 桑村哲夫 岩波新書 ★★

    魚類学というのはなかなかマニアックな世界だが、脊椎動物の種の約半分は魚類であって、実は奥が深いのだ。今西学派に属する著者の研究は、海中でのフィールドワークに個体識別の手法を取り入れたところがユニーク。でも今西進化論は批判している。('05.2.23)

「感じない男」 森岡正博 ちくま新書 ★★

    何だかよく分からないタイトルだが、中身は相当ヤバい。まぁ、大学教授という立場にありながらこんな本を書いてしまった著者の勇気に拍手を送ろう。非常に笑えるのだが、どうも著者の意図とは関係のないところで笑いが止まらなくなってしまった。スミマセン。まるで私小説を読んでいるような、ひどく自虐的な本だった。問題提起としては面白いと思ったけど、肝心の著者の分析に対しては、共感も納得もできなかった・・・かな。しかしこれは学問なのか?('05.2.20)

「イラクとアメリカ」 酒井啓子 岩波新書 ★★☆

    これは、コンパクトに纏められたイラク現代史の本である。下の『イラク 戦争と占領』を読む前に、こちらを読んでおくべきだった。

    周知の通り、イラクは世界第2位の石油埋蔵量を誇る。イラクは「レンティア国家」(rentier = 金利生活者)、つまり働かずして食っていける稀有な国家であって、もっとずっと発展できる余地があるのだ。こうしてみると、アラブ世界に蔓延する「アメリカ陰謀説」もあながち荒唐無稽とは言えない。(それか、アメリカが本当に何も考えていないかのどちらかだ。)

    中東に限らず世界情勢というものは、その歴史を繙いてみないとなかなか理解できない。そもそもイラクという国家自体、オスマン帝国の3つの州をイギリスが気まぐれにつなぎ合わせて作ったものに過ぎない。しかし、いくら歴史を理解して解説者を気取ってみたところで、なんの解決にもならないのもまた事実である。

    本書を読むと、国際政治はまさにゲームだと思う。しかしそれは、徹底的に自分勝手の論理に貫かれたゲームなのだ。みんなが少しずつ譲歩すれば済むことは分かっているのに、なぜ人類は歴史から学ぶことができないのだろうか?('05.2.11)

「イラク 戦争と占領」 酒井啓子 岩波新書 ★☆

    アメリカが無謀なイラク侵略戦争を始めてから丸2年が経とうとしている。イラク情勢はいよいよ泥沼化の様相を呈してきたが、いつしか怒ったり悲しんだり絶望したりすることを忘れてしまった自分がいる。

    本書は約1年前、米軍がフセイン元大統領を拘束した直後に上梓されたから、中途半端に新しくて古い。説明も分かりにくくて、ちっとも頭に入らなかった。('05.2.2)

「共感覚者の驚くべき日常」 Richard E. Cytowic 草思社 ★★★

    共感覚(synesthesia)とは、ある感覚刺激によって別種の感覚が不随意的に誘発される現象のことである。本書には出てこないが、共感覚の中で比較的よくあるのは、文字に色が付いて見えるというものだ。連想するというのとは違っていて、2は橙、5は緑という具合に、共感覚者にとってその結びつきは具体的で不変である。ただし、結びつき方は共感覚者によって異なっていて、別の共感覚者には例えば2が青、5が紫に見えたりする。次いで多いのがいわゆる「色聴」で、音を聴くと色が見えるという。世の中には、金切り声が本当に「黄色い声」に“見える”人もいるのだ!そして本書には、味覚や嗅覚から触覚(モノの形)が感じられるという、まことに驚くべきケースが登場する。こうなるとまるで余所の星の住人みたいだ。

    共感覚はおそらく日常生活に支障をきたさないので、その存在は自己申告によらないと分からない(ただし、ある人が共感覚者かどうかを客観的に判定することはできる)。本書のお陰で共感覚者がカミングアウトするようになったのか、本書には共感覚者は10万人に一人と書いてあるのだが、最近のレビュー(Grossenbacher, P. G. & Lovelace, C. T., 2001, Trends Cogn. Sci. 5: 36-41)によると2000人に一人というから、結構な比率で存在するのだ。もっとも、インターネットで検索すると山ほど引っかかってくるのだが、どうも胡散臭いのが多い。

    本書では、共感覚を記載するにとどまらず、そのメカニズムの解明に迫っている。研究の結果、共感覚の座は、大脳の皮質ではなく辺縁系にあることが明らかになった。皮質は理性を、辺縁系は情動を司っている。ヒトは、皮質が極端に発達した動物であると一般に思われているが、実は、皮質と辺縁系が共進化してきたのだ。こうして筆者は、第2部において情動(辺縁系)の重要性を滔々と述べるのであるが、これは蛇足である。もう一つ欲を言えば、共感覚者が世界をどう認識しているのかという「共感覚の博物学」的記載がもっと欲しかったところだ。('05.1.15)

「被差別部落の青春」 角岡伸彦 講談社 ★★☆

    筆者自身が「純粋部落民」。関西を舞台に、100人以上の部落関係者にインタビューして、それぞれの部落の青春を明るくカラリと描き出した。これぞ被差別部落の現在を知るための格好の書。と、絶賛したいところだが──結局、さっぱり分からない。もはや、若い世代は差別を経験したことがない「非差別部落民」だ。部落民とは差別が作り出した幻想なのだから、差別がなくなれば部落民という概念も消滅する。水平社も、糾弾も、歴史の中で風化していく。語ること自体がタブーとされ、当事者も誰も語りたがらない、部落問題。それを知ろうとすることは、余計な詮索なのだろうか?

    注:著者は、本書で次のように述べている。「マスコミでは『被差別部落』と表現されるが、いちいち『被差別』を付けるのはイメージが固定化されるので以後、部落としよう。だいたい被差別部落などというありがたくない名称が部落の中で使われることは、まずない。部落内では通常はムラ、あるいは地区と言う」。ここでも本書の表現に従った。('05.1.9)

「津軽」 太宰治 新潮文庫 ★★

    電車の中で思わずプッと吹き出してしまう、愉快な紀行文。虚無的な翳がつきまとってはいるけれども、太宰文学にもこんなのがあったのか、と思えるほど健全で明るい。「たけ」と再会するラストシーンは感動的。('05.1.6)


戻る