読書日記 2025年

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街道をゆく17 島原・天草の諸道 ★★★★☆ 司馬遼太郎 朝日文庫

「島原・天草の乱」と言えば、中学の歴史の授業で習って以来、その言葉自体は脳の深いところに刷り込まれていたものの、それがどういうものだったかはついぞ考えたことはなかった。
本書は、丸ごと一冊が「島原・天草の乱」特集号である。

日本の歴史というのは、西洋の歴史に比べると、(明治期までは)あまり血生臭さを感じない。戦国の世ですら、戦に美学があった。その中で例外的なのは、キリシタンに対する江戸幕府の苛烈な弾圧かもしれない。
島原・天草の乱が起きたのは1637年(寛永14年)、3代将軍家光の時代であった。
それがキリシタンの反乱だというのは徳川幕府が作り上げた「神話」で、実際には苛斂誅求に耐えかねて、どうにも首が回らなくなった農民たちがやむなく起こした一揆だった。
島原も天草も、山がちでほとんどコメは取れない。にもかかわらず、島原領主、松倉重政・勝家親子──司馬遼太郎は「ゴロツキ」呼ばわりしている──は、功利にかられて実際よりも多い石高を幕府に申請していた。
キリシタンは、死ねば天国に行ける。この時代、住民たちはすでに棄教していたのだが、結束のために再び信仰を取り戻したのである。
女子供も合わせて3万人、地域住民全員が丸ごと参加した(されられた)というからすごい。
彼らは、打ち捨てられていた島原半島の原城に3ヶ月にわたって籠城し、最終的に(密通した山田右衛門作を除いて)全員が皆殺しにされた。
だから、反乱の後、この地域は空っぽになった。島原・天草の歴史は、ここで一旦途切れるのである。

家康は外交感覚にも優れていた。
九州に大大名を配置したのは、西から異国が攻めてくることを考えていたからという。
ポルトガルやスペインなどのカトリックは、キリスト教と一緒にやってきて国を乗っ取る。インカ帝国の滅亡が1533年だから、家康はインカのことを聞き知っていたのだろうか。
しかし家康は、たとえスペインが1万の艦隊を組んで攻めてきても、九州の大名が結束して戦えば勝てると考えていた節がある。
いずれにせよ、江戸時代は260年間以上も続いた。明治維新から現在に至るまでまだ150年ちょっとしか経っていないことを思えば、家康の作り上げたシステムの頑強さは驚異的である。

島原と天草はひとくくりにして語られることが多いが、島原は長崎県なのに対し、天草は熊本県に属する。
天草は海だから、熊本よりも長崎が似合う。実際、天草は肥後細川家にお世話になったことはない。
さらに、同じ天草諸島でも、天草下島のすぐ南にある長島や獅子島は鹿児島県に属する。これは、肥後の南部が島津軍に占領されたときに、一緒に島津領に組み込まれたのである。(25/10/28読了 25/11/24更新)

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