2007年 63冊

(★〜★★★は満足度
「シリーズ日本近現代史5 満州事変から日中戦争へ」 加藤陽子 岩波新書

    極めて難解。私の如き浅学の者が迂闊に手を出すと、火傷を負う。充分な学識に裏打ちされた者だけが、本書を繙くことを許されるのだ。1930年代というのはどうもイメージが湧きにくい時代なのであるが、当時の国際関係は現在とは比べものにならないくらい錯綜していて、サッパリ訳が分からない。「満蒙の沃野を頂戴しようではないか」──ただこのキャッチ・フレーズのみが、妙に頭にこびり付いて離れないのであった。('07.12.29)

「文章のみがき方」 辰濃和男 岩波新書 ★★★

    良い文章を書くにはどうすればよいか。その道のりには果てがなく、到底、薄っぺらな本でハウツー的に習得できるものではない。それは、文章を書くことを日々の生業としている人にとって、究極の質問なのかもしれない。最近は、インターネットのブログの影響で、濃度の薄い文章が大量に生産され、消費されている。しかし、本書を読むと、文章というものは確かに人を動かす力があるのだ、と思う。

    自分の心に向き合うことが難しいように、自分の文章に向き合い、自分の文章ににじみ出ている邪心を見つめるのも難しい。
    自分の文章ににじみ出ている邪心。本書を読んで感じることは、著者の謙虚さである。自慢話は書かない。我が身を振り返ってみれば、邪心だらけである。ですます体の文章も、大抵はだらしなくなるので好きではないが、本書に限ってはそうではなく、深く心に沁みる。

    印象に残ったフレーズをいくつか。

    からすあ、があて啼けば橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。(太宰治「雀こ」)
    雨が降り、木の下に寝る私の体の露出した部分は、水に流されて来た山蛭によって蔽われた。その私自身の血を吸った、頭の平たい、草色の可愛い奴を、私は食べてやった。(大岡昇平「野火」)
    是非読んでみようと思った本を列挙する。
  • 開高健『輝ける闇』新潮文庫
  • 三宮麻由子『そっと耳を澄ませば』集英社文庫
  • 田口ランディ『神様はいますか』新潮文庫
  • 井上ひさしほか『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』新潮文庫
  • 三島由紀夫『文章読本』中公文庫
  • 丸谷才一『文章読本』中公文庫
  • 加藤周一『読書術』岩波現代文庫
  • 「下手ですが精一ぱい、心をこめて書く」。これ以外に修行の道はない。本書の締めくくりに、著者はいう。

    渾身の気合で書く。
    そして、肩の力を抜いて書く。
    自分には、この本に出てくるような文章は到底書けそうにない。でもせめて、いい文章を沢山読みたい。もっともっと読みたい。そう思った。 ('07.12.23)
「ここまでわかったイルカとクジラ」 村山司・笠松不二男 講談社ブルーバックス ★★

    最近、子供を連れて水族館に行くことが多いので、イルカは結構身近な動物である。本書を購入したそもそもの理由は、イルカの反響定位について調べる必要があったからだが、イルカの認知や言語の話は非常に興味深かった。イルカは霊長類と並んで知能の高い生物であるが、霊長類学のイルカ版のようなこういう研究がなされているとは知らなかった。イルカは水棲だし、イルカを使った実験は水族館でしかできないので(アメリカにはイルカを飼育している研究所もあるそうだが)、分かっていることは霊長類に比べてずっと限られている。チンパンジーの知性を調べてもヒトの優位性は揺らがないが、イルカの知性は独立に進化したものなので、イルカの脳を調べることでこれから大きな発見があるかもしれない。

    後半のクジラの話は、捕鯨との関連から資源調査的な色合いが強く、やや退屈だった。どうせなら捕鯨そのものについてもっと詳しく書いて欲しかった(「あとがき」に少し書かれているが)。イルカ/クジラという区別は生物学的な分類群ではない(ハクジラ亜目の小型のものをイルカと呼ぶ)ので、その辺の知識を整理するためにも、分類や系統に関する話があると良かった。('07.12.18)

「シェルパ」 根深誠 中公文庫 ★☆

    1950年代、ヒマラヤ登山の黄金期を支えたシェルパたちの光と影。切り口は大変面白いのだが、これはルポとしては失敗作だと思う。シェルパはみんな名前が似ているのでややこしいのだが、読んでいる途中で誰についての話なのか分からなくなる。かつて活躍したシェルパたちの貴重な生の声をたくさん集めてあり、取材は大変だったと思うが、それが活かされていない。インタビューをそのまま載せるというのもあまりにも芸がないし、シェルパ各人の個性がビビッドに伝わってくるようなものではなかった。('07.12.12)

「貧乏人は医者にかかるな!」 永田宏 集英社新書 ★★☆

    著者の永田先生と呑む機会があり、ネタの仕込みのために読んだのだったが、大変分かり易く、一気に読んでしまった。こういう問題が存在すること自体、今までロクに考えたこともなかった。私も少し前までは、これからは医者が余るので、医師になっても競争が激しくて大変だ、というような話を聞かされてきた。現実には、医師は明らかに不足していて、現在医療崩壊がジワジワと進行中であるという。これから第二の青春を謳歌しようとしている団塊の世代の人たちが後期高齢者となる2025年には、医療サービスの質は現在よりも確実に低下する。しかも、有効な対策は存在しないという、なんとも希望のない状況だ。新たな医療技術の開発が大事なことは言うまでもないが、医療をいかにして有効に機能させるか、という研究も重要であると認識した次第。('07.12.3)

「グレートジャーニー (1)南米〜アラスカ篇 (2)ユーラシア〜アフリカ篇」 関野吉晴 ちくま新書 ★★☆

    ラエトリを人類誕生の地とするのは少々こじつけで、テレビで見たときは、マスコミ受けをねらった企画のように思われた。しかし実際の所、本書に掲載された写真は誠に素晴らしい。特に子供の表情が良い。著者の訪れたアマゾン源流域やシベリアのチュコト半島は、人類の居住地域の中で最もアクセスが困難なエリアなのではないだろうか。現在の地球上になお、このような人々が暮らしていることは驚異である。ユーラシア大陸は平坦で、シルクロードを通じて頻繁に東西文明の交流があったのに対し、インカ・マヤ・アステカ文明の間の交流はアンデス山脈に阻まれ少なかった。このことを、自分の足で移動した実感として感じることができるというのは、まことにスケールが大きい。著者は旅をするために医者になったというから、徹底している。

    写真は素晴らしいのだが、記述が物足りなく、あまりにあっさりとゴールしてしまったかのような印象を受ける。もっと詳細な記録や、経路を記した地図が欲しかった。著者の公式ウェブサイトはこちら。('07.11.18)

「精神病棟の二十年」 松本昭夫 新潮文庫 ★★

    統合失調症の精神世界がどんなものなのかを、内側から語った貴重な記録。高校時代によく読んだ私小説のような、ドロドロとした暗さに全篇が貫かれている。もっとも、女性関係が引き金となって発症するというのがどのくらい典型的なのか分からないし、フロイトのいうリピドーを精神病と結びつけるのは、現代的な視点からすると間違っているのだろう。向精神薬がなかった時代の精神病院は、まさに恐怖と絶望の支配する空間だったことが分かる。本書で処刑シーンさながらに描かれている電気ショック療法は、『狂気という隣人』によれば、現在でも頻繁に行われているという(もちろん、本書と同じやり方ではないが)。('07.11.5)

「精神科医になる」 熊木哲夫 中公新書 ★☆

    悪い意味で形而上学的で、あまり印象に残らない。ソフトな語り口とは裏腹に、何を主張したいのかいまいち分かりにくかった。著者(ホームページはこちら)は意外にも若い人だった。('07.10.29)

「消滅する言語」 David Crystal 中公新書 ★★☆

    基本的なスタンスは『消えゆく言語たち』と同じだが、こちらの方がより社会言語学的である。地球上には約6,000の言語があると言われているが、人口のたった4%の人たちが、世界の96%の言語を話している。日本語のような巨大言語を母語としてしまった私にはなかなか想像できないことだが、現在、およそ2週間に一つのペースで言語が死滅しているという。言語は人類が生み出した最高傑作であり、危機言語こそ世界遺産にでもして保護すべきものである。しかし困ったことに、あらゆる国家の政府というものは、少数言語の保護どころか、その抹殺に熱心なのである。言語多様性を守ることは、当事者がそれを望まない場合が往々にしてあるので、生物多様性を守ることに輪をかけて困難である。それではどうしたらよいのだろうか?著者は、もう残された時間はないのだから、それでもなお言語学者は積極的に介入すべきだ、と説く。

    訳者(斎藤兆史)によるあとがきは、本書の価値を大幅に減じている。訳者は、著者の姿勢が西洋的な価値観に貫かれているとし、かつてのキリスト教の宣教師の姿をそこに重ね合わせる。これでは、「毒を抜く」どころか本書の主張を完全に否定してしまっている。それではこの訳者は、言語が次々と死滅してゆくのを指をくわえて眺めていればよいとでも言うのだろうか。それに、日本語は、いくつかの言語を死滅に追い込んできた帝国主義的言語の一つである。訳者は、「すでに日本語自体が危機言語になっているかもしれない」などと的外れなことを言っているが、問題の重要性を全く認識していないとしか思えない。('07.10.24)

「狂気という隣人」 岩波明 新潮文庫 ★★

    都立松沢病院で筆者が診た、重篤な精神病患者が多数登場する。統合失調症(精神分裂症)は、脳科学の対象としては大変興味深いのだが、実際に患者を診察するのは非常に泥臭い作業なのだろう。世の中にはスキゾフレニック・キラーが一定の割合で存在するのに、たとえ殺人を犯しても何の罪にも問われず再び社会に戻っていくというのは、被害者の立場からしたらこれほど理不尽なことはないだろうと思う。著者の語り口は淡々としているが、著者自身が、狂気や犯罪に対して「耽美派」に与するのではないか、と思えなくもない。('07.10.20)

「パラサイト・イブ」 瀬名秀明 新潮文庫 ★★

    最近、筆者の講演を聞く機会があった。なかなか示唆に富む、聴衆を魅了する喋りで面白かった。これはタダモノではないな、と思った。私はホラーとか、サスペンスとか、SFといったジャンルには全く興味がないのだが、そういう訳で本書を手に取ってみた次第である。

    筆者が大学院在学中に本書が書かれたことを思えば、その豊かな才能には脱帽せざるをえない。しかし、一読者として、本書をエンターテインメントとして楽しめたかというと、必ずしもそうではない。科学的な記述が正確であればあるほど、フィクションの部分の荒唐無稽さが浮き彫りになってしまい、後半にさしかかると次第に読み進めるのがばかばかしくなってくる。この小説に恐怖を感じられる人はいるのだろうか?科学は、それが真実である(と思っている)からこそ面白いのであって、「科学小説」なるものは本質的に存在しえないのだ、と思う。('07.10.14)

「現代の貧困」 岩田正美 ちくま新書

    致し方ないことなのかもしれないが、社会学的な研究というのは、統計を取るより他に能がないのだろうか。マスコミに取り上げられるようなcatchyな例はあくまでも特殊なケースに過ぎず、そこから全体像は見えてこないという考え方もあるだろう。本書に出てくるような(地味な)研究は大事なのだろうけれど、パーセンテージを示した表がつらつらと出てきても、読み物としては全く面白くない。「ネットカフェ難民」の実態を知りたいなどという安易な理由で本書を手に取ったのがそもそも間違いだった。('07.10.1)

「ドキュメント 雪崩遭難」 阿部幹雄 山と渓谷社 ★★

    山での遭難事故の中で、一番恐ろしいのは雪崩かもしれない。雪崩で生き埋めになった場合、数十分以内に見付け出さないと確実に死ぬ。雪崩に巻き込まれながらも生還した人の話は貴重だが、自分ならとても助かりそうにない・・・。私は山スキーをする気もないし、冬の剱に登りたいとも思わない。しかし、雪崩は四国の山でも起こるのであり、低山といえども雪のある時期に入山するのなら、雪崩に関する知識を一通り身に付けておく必要があることを痛感した。それにしても、山は奥が深い。

    今年はあと3ヶ月を残して、目標の50冊を達成!('07.9.30)

「ドキュメント 気象遭難」 羽根田治 山と渓谷社 ★★

    遭難者が自分の体験について多くを語りたがらないのは当然だと思うが、遭難事故を知り、それを防止するためにはケーススタディを繰り返すしかない。著者は大変だろうが、できるだけ多くこういう本を世に出して欲しいと思う。('07.9.26)

「恐竜たちの地球」 冨田幸光 岩波新書

    綺麗な写真が多数あって一見楽しそうだが・・・。著者は国立科学博物館の室長さんなのだが、博物館の使命ってシロウトに分かり易く説明することじゃなかったっけ!?よくぞここまで、本来面白いはずの話題をつまらなく説明できるものだと感心する。ナントカ骨に突起があるとか、「共有派生形質」とやらの説明が延々と続き、読み進めるのも苦痛で、何一つ頭に残らなかった。それでいて、そもそも恐竜の定義は何か、恐竜は鳥盤目と竜盤目に分けられるが、現生の鳥類が鳥盤目でなく竜盤目に属しているのはなぜか、などの知りたいことは何一つ書かれていなかった。更に言えば、写真の骨がどこの博物館で見られるのかという情報も欲しかった。('07.9.17)

「ルポ 最底辺」 生田武志 ちくま新書 ★★

    大阪市西成区、釜ヶ崎。現代日本に、こういう空間が存在するとは知らなかった。この本は「ルポ」とはいえ、ちょっと取材して書かれたようなものではなく、著者は釜ヶ崎で20年間日雇いとして働き続けたという驚くべき人物である。

    現在、「食の安全」が過剰に叫ばれる一方で、大量の食べ物が捨てられている。コンビニやファーストフィード店では、賞味期限切れで捨てられるものに、わざわざ水や砂をかけて食べられなくするのだそうだ。私は野宿者問題にそれほど強い問題意識を持っているわけでもないが、素朴に、どうせ捨てるんだったら食べてもらった方がマシだと思うけどなぁ。行政が、そういうリサイクルのシステムを作るのはそんなに難しいことじゃないはずだ。とはいえ、行政が率先して弱いものいじめをしているという現状では、そんなことは望むべくもないのだろう・・・。富めるものが貧しいものに施しを与えるのは当然のことだと思うけど、日本にそれがないのは、やっぱり社会にゆとりがないってことなんだろう。('07.9.12)

「鼻のきく人 舌のこえた人」 Karl-Heinz Platting 学会出版センター

    非常につまらない。訳者(小川尚)が、なぜこんな退屈なドイツ語の本を翻訳しようと思い立ったのか、理解に苦しむ。翻訳も機械的で下手。1,800円損した・・・。('07.9.6)

「匂いの帝王」 Chandler Burr 早川書房 ★★☆
「感性の起源」 都甲潔 中公新書 ★☆

    色んな話題を詰め込んであるが、どれも中途半端で、雑駁な印象。味覚と嗅覚の話かと思いきや、自己組織化について2章も割いて延々と説明している。「感性の起源」というタイトルもピンと来ないし、全体として何を主張したいのか分からない。日本文化礼賛も牽強付会である。こういう本を書いてはいけないな、と思った。

    視覚は大脳新皮質で処理され、客観的、嗅覚は「古い脳」である嗅球に直接伝達され、単細胞生物にもあって起源が古く、主観的。一面ではそれは正しいのだろうが、実は遺伝子レベルで見ると嗅覚より視覚の方が進化的な起源が古い。味覚の好き嫌いは生得的であるのに対し、嗅覚の好き嫌いは後天的に学習されるとか、味覚センサーでバーチャルな味を合成できるとか、面白いネタも含まれているのだが、そういう話題をもっと掘り下げて欲しかった。('07.8.30)

「アイヌ、いま」 西浦宏己 新泉社 ★☆

    この本が出版されたのは1984年だから、「いま」といっても20年以上も前のいまである。この頃はまだ、アイヌへの差別が公然と行われていた、ロクでもない時代だった。なにしろ「アイヌ」の代わりに「ウタリ」という言葉を使わなければならかなったのだから。そういう時代背景のためか、この本の取材は何か腫れ物を触るような、及び腰の感じがする。本書からは、和人に同化させられた惨めなアイヌ像しか伝わってこなかった。('07.8.27)

「「におい」と「香り」の正体」 外崎肇一 青春出版社 ★★

    本書の出版は2004年と比較的新しいのに、奇妙なことに分子(遺伝子)の話がほとんど全く出てこない。従って嗅覚研究の現状を知りたい人にはお勧めできない。しかし私が知りたかったのは、嗅覚研究が分子時代に突入する以前のクラシカルな生理学だったから、むしろ求めていたものに合致していた。まぁ、1991年のBuck & Axelの論文以前には、嗅覚についていかに何も分かっていなかったかということが分かった。アムーアによれば、匂いの単位である「原香」は樟脳のにおい・刺激臭・ハッカ臭・花香・麝香・エーテル臭・腐敗臭の7つだそうだが、遺伝子の教えるところによれば、色覚や味覚と違って嗅覚には単位は「ない」ということになる。('07.8.25)

「アイヌ語をフィールドワークする」 中川裕 大修館書店 ★★☆

    非常に勉強になった。著者がアイヌ語の研究を始めた1970年代後半から80年代というのは、明治30年代生まれの、アイヌ語が流暢な最後の世代と交流できた時代だった。その世代の人たちは、和人と変わらない生活を送りながらも、辛うじてアイヌの精神世界を具現していた。その人たちのおじいさん・おばあさんの世代は、もうアイヌ語のモノリンガルの世界となる。1920年以降に生まれた流暢な話し手としては、昨年亡くなった萱野茂さん(1926年生まれ)と『CDエクスプレス アイヌ語』の話者である中本ムツ子さん(1928年生まれ)しか知られていないらしいので、間もなくアイヌ語は死滅することになる。アイヌ語と日本語が入り交じった会話例は興味深いが、最期を迎えた言語の姿であり、痛々しくもある。なんとか若者が話す言葉として復活してほしいものだ。

    身の回りのあらゆるものに人間と同じ感情を見出すというアイヌの精神世界は、現代的な視点から見れば非常にカッコイイのであり、現代日本でこれからもっと流行りそうな気がする。しかし著者が研究を始めた頃は、今や信じられないことだが、北海道で「アイヌ」という言葉を口にするのさえ憚られたという。現在でもそのような差別が残っているのかどうか、私は知らない。

    イオマンテとは、人間界(アイヌモシリ)にやってきたカムイ(熊やシマフクロウ)を本来の自分たちの住みか(カムイモシリ)に送り返す儀式なのだそうだ。白老のアイヌ民族博物館では何度か行われたことがあるらしいが、最近でもやっているのだろうか?本書のイオマンテの記述は感動的である。('07.8.22)

「アイヌの碑」 萱野茂 朝日文庫 ★★★

    二風谷のアイヌコタンに生まれ、一時はアイヌであることを捨てようと思ったけれども、シャモ(和人)の学者の横暴なふるまいに対し

    わが国土、アイヌ・モシリを侵され、言葉を剥奪され、祖先の遺骨を盗られ、生きたアイヌの血を採られ、わずかに残っていた生活用具までも持ってゆかれた。いったいこれではアイヌ民族はどうなるのだ。アイヌ文化はどうなるのだ
    と一念奮起し、たった一人で、なけなしのカネをはたいてアイヌの民具の蒐集を開始。やがて、資料館を建て、アイヌ語の辞書を編纂し、ついには国会議員にまでなった著者は、まさに偉人というに相応しい人である。もちろん国会議員になったから偉いわけではなく、本当はアイヌの酋長にでもなるべき人だった。そんな偉大なるアイヌの指導者も、2006年5月6日、79歳で逝去された。著者が生まれた二風谷という所は是非訪れてみたいと思うが、そのアイヌの聖地も、二風谷ダムの完成によって水没してしまった。

    シャモがアイヌに対してどれほどひどいことをしてきたか、という気が滅入る事実については、アイヌを知る上では避けて通れないので、これから勉強していかなければならない。だが、アメリカ大陸やオーストラリア大陸でスペイン人やイギリス人がやってきたことを、和人が批判する資格がないことは確かである。

    著者らのそれこそ血の滲むような努力によって、アイヌ文化は確かに復興してきている。先日も、先祖供養の儀式であるイチャラパが炎天下の芝公園で執り行われ、僭越ながら私も見学させてもらった。しかし、いかんせん狩猟採取民族というのは人口が少ないので致し方ないが、琉球文化に比べると、アイヌ文化はまだまだマイナーである。

    もはや伝統的なアイヌの共同体は存在しないが、それは和人とて同じことで、我々は、近代化や高度経済成長の過程で非常に多くのものを失った。しかし少なくとも和人には、言語が失われるという心配はない(方言はもの凄い勢いで消滅しているが)。アイヌ語を母語として育った最後の世代である著者が、本書の最後に、

    園長はアイヌ語だけで日本語は絶対にしゃべらん。すると園児たちはあっというまにアイヌ語を覚えてくれると思うのです。
     山子やめて、彫刻やめて、店やめて、原稿書きやめて、わたしは幼稚園の先生になりたい──それがわたしの夢。
    と言っているのが印象的である。著者の夢(ウェンタラプ)が実現したのかどうかは知らないが、ethnologueによれば、1996年の時点でアイヌ語の話者は僅か15人となっている。私も『CDエクスプレス アイヌ語』でボチボチ勉強を始めたのだが、その話し手ももう80歳であり、母語としてのアイヌ語の死滅は時間の問題である。アイヌ語は系統不明の言語なので、アイヌ語が失われることによる人類の損失は、印欧語全体が失われることに等しい。

    もうこうなってしまうと、母語としてのアイヌ語を復活させることはほとんど不可能なので、あとは(和人の)アイヌ語研究者から第二言語として学習するより他にない。実際にアイヌ語の学習環境はかなり整ってきていて、音声付きのアイヌ語教材が存在すること自体、アイヌ語の学習者が増えていることを示している。アイヌ語の新聞も発行されているし、実は、Macにはアイヌ語のフォントもある。アイヌ語が間もなく消滅するということは金田一京助の時代から言われていたことで、この状況があと30年早く来ていれば・・・と思うが、そんなことを私が嘆いても始まらない。

    大雪山のアイヌ名(ヌタプカウシペ)を調べたことからすっかりアイヌ語とアイヌ文化にハマってしまった次第である。我らの隣人・アイヌについてもっと知りたくなる、小粒ながら味わい深い名著。('07.8.14)

「犯罪精神医学入門」 福島章 中公新書 ★★

    大阪教育大学附属池田小学校事件の犯人、宅間守を中心とした、いくつかの具体例についてのcase study。大量殺人などの凶悪犯罪を起こす人の脳には、微細な器質異常が見出されるというのは興味深い。筆者は<殺人者精神病>という概念を提唱しているが、大量殺人を犯すような人はいずれにせよ正常な精神状態ではないことを考えれば、精神鑑定で責任能力の有無を問うという現行のシステムはなんとも不可解である。('07.8.1)

「DNAから見た日本人」 斎藤成也 ちくま新書 ★★

    なかなか勉強になったが、最終章はあまりにも荒唐無稽では・・・。地球上にはもはや孤立した集団は存在しないので、局所的な小集団はすでにかなりの程度消滅してしまっているだろう。しかし、今後もずっと、遺伝的・文化的な均質化が地球規模で進行し続けるというのは少し単純すぎるように思うし、そんな退屈な世界には住みたくない。('07.7.28)

「解剖男」 遠藤秀紀 講談社現代新書 ★★☆

    アツいな〜この人。新しくなった上野の国立科学博物館には120体もの動物の剥製が展示されている部屋があって、非常に壮観なのだが、この展示室は筆者が作ったのだそうだ。本書を読んで、剥製や骨格標本を見る目が少し変わったかもしれない。アリクイ・アルマジロなどの異節類(Xenarthrans)の腰椎には機能不明の余分な突起があるとか、シカのように走ることに特化した動物では、鎖骨や尺骨(2本ある腕の骨のうちの一つ)が消失し、指の先端だけが地面に接地する極端な「爪先立ち」をしているとか、マニアックなネタ満載。しかしその研究内容となると、サイの耳管に憩室はないとか、イルカは偶蹄類と同様に「気管の気管支」をもつとか、ラクダの瘤の脂肪はコラーゲンのシートで接着しているとか、マニアックを通り越して限りなく地味である。

    かつて、「情報こそが博物館を変える」などという誤った考え方がはびこった時代があったけれども、博物館はまずは徹底的に遺体の収集に徹するべきで、そのためにアジアを拠点としたインフラの整備が必要であると説く。そして、遺体を人類が共有すべき文化的知として捉える「遺体科学」の理念を提唱している。また、博物館に行きたくなってきたぞ。('07.7.22)

「行きずりの街」 清水辰夫 新潮文庫 ★☆

    「ミステリー史に燦然と輝く大傑作」だそうだが・・・。登場人物の人間関係が複雑で、途中でフォローするのが面倒臭くなった。終盤はテンポ良く一気に読ませられてしまうが。('07.7.20)

「生物と無生物のあいだ」 福岡伸一 講談社現代新書 ★★★

    各出版社が競って質の低い新書を濫造する中にあって、これは「新書かくあるべし」とでも言うべき秀逸な作品である。野口英世の科学的業績のうち、今日でも価値のあるものはほとんどない、という意外なエピソードから始まる本書は、唸るような名文に満ちている。

    助手に採用されるということはアカデミアの塔を昇るはしごに足をかけることであると同時に、ヒエラルキーに取り込まれるということでもある。アカデミアは外からは輝ける塔に見えるかもしれないが、実際は暗く隠微なたこつぼ以外のなにものでもない。講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手─講師─助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐えきった者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする。
    これはさすがに言い過ぎではないか、と思うが、笑えない・・・。

    著者曰く、

    生命とは動的平衡にある流れである。
    なるほど、これはちょっと新しいかもしれない。成長の止まった大人が、なぜかくも大量のエネルギーを毎日摂取し続けなければならないのか。なぜなら我々は、増大するエントロピーに打ち勝って秩序を維持するために、常に身体を新しい部品で置き換え続けなければならないからである。このように定義すれば、ウイルスは生物でない、ということになるのだろう。ただその点が、なぜか本書には説明されていなかった。

    だが、本書の魅力は、科学の言葉を詩に翻訳することができる著者の卓越した言語感覚にある。「タンパク質のかすかな口づけ」「時間という名の解けない折り紙」・・・。エピローグがまた洒脱で良い。このような素晴らしい書き手が日本にいたとは知らなかった。('07.7.11)

「ダーウィンの足跡を訪ねて」 長谷川真理子 集英社新書 ★☆

    アインシュタインの伝記なら子供の時にさんざん読んだけど、ダーウィンのまともな伝記というのはこの歳になるまで読んだことがない。そういう意味では得るところはあったものの、イマイチ文章が好きになれなかった。アインシュタインよりも時代がずっと古いこともあるけど、本書を読んでも、ダーウィンという人物に魅力を感じるほどの生き生きとしたイメージは湧いてこなかった。('07.7.5)

「SOS世界危機遺産」 平山郁夫 監修 小学館文庫 ★★

    極めて地味な世界遺産(カナダ・ルーネンバーグ旧市街)を一つ訪れた帰りの飛行機の中で読んだ。世界遺産という理念には同調するものの、その一方で、このようなトップダウン式の管理体制でいいのだろうかとも思う。('07.6.29)

「少年事件に取り組む」 藤原正範 岩波新書 ★★

    著者は家庭裁判所の調査官を28年間勤めた人である。下の本とノリは似ているが、こちらの方が具体例が出てくる分だけとっつきやすい。とはいえ、法律の条文が出てくると、とたんに読む気が失せる。

    14歳から16歳が一番非行に走りやすい時期だというのは分かる。多くの場合、歳をとれば自然にそういうこともなくなるので、少年法の理念は大いに納得できるものだ。ただ、更正の可能性を考えたとき、少年法の適用範囲が20歳までというのはやはり実感に合わないように思う。高校と大学の境である18歳で区切る方が妥当な気がする。('07.6.18)

「少年犯罪と向きあう」 石井小夜子 岩波新書 ★☆

    著者は、少年法の改正には反対の立場である。物事は全て相対的であって、世の中のあらゆることは、賛成する人と反対する人がいるものだ。だが、いくら統計的なデータを示して、少年による凶悪犯罪は増えていないと言われても、どうも実感に合わない。マスコミに踊らされているだけだと言われればそうかもしれないが、具体例を見ずして統計データだけを示されても面白くないし、そこから真実は見えてこないように思う。それにしても、法律の話というのは実に退屈である。なんせ中学校の公民レベルの知識すら怪しいの状況なので、もっと基礎を固めないことには、いくら読んでもサッパリ頭に入ってこない。('07.6.15)

「少年A 矯正2500日全記録」 草薙厚子 文春文庫 ★★

    少年Aの最も理解しがたいのは、猫の解剖で性的興奮を覚えた、という点である。こういうはどのくらい一般的なのだろうか?こういう人が沢山いるとすると、世の中は殺人鬼だらけになってしまうのだが・・・。

    少年Aの性的サディズムは、しかし、2500日におよぶ「赤ん坊包み込み作戦」によって矯正されたことになっている。これは、性中枢が未発達だったから可能だったということで、それはそうかもしれない。今、少年Aは溶接工として働きながら、ひっそりと暮らしているそうである。非行少年が更生したというのはもちろん結構な話で、これは国家の威信をかけた一大プロジェクトであったのかもしれない。しかし、殺人犯がなぜここまで手厚く保護されなければならないのか、そして、そのために注ぎ込まれたコストを考えると、正直言って何とも複雑な気分になる。

    そもそも、「酒鬼薔薇聖斗」は本当に少年Aだったのだろうか?筆跡鑑定の結果は一致するともしないとも言えなかった。国語が苦手でろくに漢字も書けなかった少年Aに、「三島由紀夫の再来かと思わせるような」犯行声明が書けるものだろうか。彼は二重人格だったのか?それならば精神鑑定ですぐに分かるはずである。自宅の風呂場で切断した頭部を洗ったのに、家族の誰も気付かなかったというのも不可解である。どうも腑に落ちない点が多い。

    この事件の衝撃は、10年経った現在でも決して風化していない。その後の少年犯罪の猟奇性を鑑みると、なんとも不気味な時代になったものだと思う。そして、自分の子供が被害者にも加害者にもなりうることの恐怖を感じずにはいられない。('07.6.9)

「彩花へ」 山下京子 河出文庫 ★★☆

    「少年A」の狂気のもう一人の犠牲者、山下彩花ちゃんの母親による手記。著者は、慈愛に満ちた聖母である・・・。「少年A」に向かって、本気で「あなたは私の大切な息子なのだから」と言うことができる、この器の大きさは、真似できるとかできないとか、もうそういうレベルを完全に超越してしまっている・・・。('07.6.6)

「淳」 土師守 新潮文庫 ★★★

    涙なくしては読めない・・・。淳君には知的発達障害があったという。そのためか、純真で、いつもニコニコして、誰からも愛されていた。それが、あのような最悪の結末を迎え、しかもその加害者は淳君の友達の兄だった。そればかりでなく、傷口に塩を塗るような心ないマスコミの取材攻勢と世間の好奇の目に晒され、その一方で、加害者である「少年A」は、少年法に守られ、罪を問われることはなく、罰もなく、被害者の家族は審判を傍聴することすら許されない。

    このような絶望の淵にあって、自らの人生をも破滅させることはできるだろう。けれども、筆者は絶望を力に変えた。痛切な訴えは実を結び、2001年、少年法は52年ぶりに改正されることとなった。自分がこの立場だったら、とてもこんなに強くはなれないだろう。

    事件の異常性と、少年法によって加害者の実像が謎に包まれていたことから、興味が加害者側に行ってしまったことは致し方ない。なんとか少年Aの心理を理解しようとして、「少年Aも歪んだ社会の被害者なのだ」という同情的な論調が生まれたが、被害者にしてみれば、そんなものは到底容認できるものではないだろう。

    本書と、『「少年A」この子を生んで・・・』の記述とのあまりの食い違いに唖然とする。本書を読むと、後者に書かれていることはすべて言い訳にしか聞こえない。('07.6.4)

「「少年A」14歳の肖像」 高山文彦 新潮文庫 ★★

    これを先に読んでいれば、『「少年A」この子を生んで・・・』の印象はだいぶ違ったものになっただろう。この母親は、やはりかなりエキセントリックだったようだ。とはいえ、「酒鬼薔薇」事件を母親の育て方のせいにするのは酷だと思う。この程度の母親なら沢山いるだろう。

    この事件は、ひとえに「少年A」の特異性によるのではないだろうか。彼は天才だったのだ。彼は「直観像素質者」であって、見たものを瞬時に記憶し、細部まで克明に再現する能力を持っていたという。ダリの絵に興味を示したばかりでなく、彼は幼少の頃のダリと奇妙に符合していた。小学校の図工の時間には、赤くただれた脳にカッターの刃を突き刺した不気味な作品を作った。だが、学校では異常者扱いされ、両親も彼の能力を全く理解していなかった。・・・そして、天才と狂気は紙一重なのだ。

    だから、この事件を時代の必然のように捉える見方はどうかと思う。本書は「少年A」が殺人に至った心理を解説しているのだが、それは到底納得できるものではなかった。宮部みゆきが最後に書いているように、この事件は、理解できなくてよいのだ。

    「少年A」は、現在24歳になっているはずである。2005年1月1日に、少年院から本退院したそうだ。今や自由の身となって、違う名前でどこかの街で暮らしているのだ・・・。('07.6.2)

「「少年A」この子を生んで・・・」 「少年A」の父母 文春文庫 ★★

    この事件(「酒鬼薔薇」事件)が起きたのは、もう10年も前だったのか・・・。自分がこのような立場になったらどうするだろうか、自分は思春期の危機をどうやって乗り越えてきたのか、などと考えながら読んでいった。が、読み進めていくうちに、なんともいえない違和感を感じずにはいられなかった。

    一体、殺人を犯した息子と3ヶ月も一緒に暮らしていて、全く気付かないなんてことがありうるだろうか?しかも、母親は専業主婦で、少年Aは途中から不登校になっているから、四六時中一緒にいたわけである。本書によれば前兆は沢山あったし、小学五年生の頃から猫を解剖していたという・・・。少年Aの不可解さは言うまでもないが、いくらなんでも、逮捕当日まで親が気付かなかったというのは理解できないのだが・・・。('07.5.31)

「天国はまだ遠く」 瀬尾まいこ 新潮文庫 ★☆

    23歳の女性を主人公にした「清爽な旅立ちの物語」なので、流石に30代半ばのオッサンには感情移入できず・・・。一日分の通勤時間内に読み終わる。('07.5.29)

「流星ワゴン」 重松清 講談社文庫 ★★☆

    妻は不倫に走って家庭は崩壊、会社からもリストラされた38歳の男が、自分と同い年の父親に会って過去のやり直しを試みるという、荒唐無稽な話。「一億三千万人総号泣」という(御茶の水丸善の)キャッチコピーは全く言い過ぎだが、終盤に泣ける箇所あり。

    実際のところ、自分が親の立場になってみて、やっと両親と仲良くなれたと思う。「親の心子知らず」とはよく言ったものだ。子供ができると世界観が変わるというのは本当で、自分中心だった世界が、子供中心の世界へと再構築されるのだ。('07.5.26)

「イニシエーション・ラブ」 乾くるみ 文春文庫 ★★★

    再読した感想は、「ディープだ・・・。怖い・・・。」である。実はいろんな仕掛けが施されていたことに、再読して初めて気付く。この構成の見事さは芸術である。参りました。

    ネタバレにならないように、裏表紙の言葉を引用するにとどめる。

    甘美で、ときにほろ苦い青春のひとときを瑞々しい筆致で描いた青春小説──と思いきや、最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する。
    とにかく読んでみるべし。('07.5.22)
「不倫の恋で苦しむ男たち」 亀山早苗 新潮文庫 ★★

    不倫の恋に苦しむ人々を勇気づけることを目的とした、罪作りな本。「人を好きになることと人生の豊かさは比例する」という言葉が印象的。('07.5.20)

「セックスボランティア」 河合香織 新潮文庫 ★★

    タイトルは刺激的だが、内容は、障害者の性についての至って真面目なルポルタージュである。身の回りに障害者がいないので、こういう問題が存在すること自体考えたこともなかった。障害者に対する意識も随分変わってきているのだろうが、赤ん坊を連れて外出してみると、世の中が実は全くバリアフリー化されていないことに気付く。自分が車椅子生活だったら、さぞかし外出するのが億劫だろうなと思う。('07.5.19)

「水曜の朝、午前三時」 蓮見圭一 新潮文庫 ★★

    そしてこれが、丸善御茶の水店のオススメNo.2。これも、泣ける恋愛小説というふれこみだったが・・・。イマイチ盛り上がらないまま終盤を迎え、どういうオチがあるのか期待しながら読み進めていくも、拍子抜けして終わる。ネタバレになるので詳しいことは書かないが、大阪万博のあった1970年、俺の生まれた頃の時代ってまだこんなんだったのかなぁ?

    人生というのは小さな決断の積み重ねであって、決定的なターニングポイントなんてものは本当は存在しないのかもしれない。それでもなお、人は「あり得たはずのもう一つの人生」に思いを巡らせるのだ・・・。('07.5.15)

「一瞬の光」 白石一文 角川文庫 ★★☆

    ちょっと感傷的な気分になったので、久しぶりにこういうの(恋愛系)を読みたくなった。丸善御茶の水店でオススメNo.1だった本。「こんな小説みたいなこと、あるわけねーだろ!」とツッコミを入れつつ、最後まで一気に読んでしまった。泣ける。けど、ラストが納得いかない・・・。('07.5.12)

「ドキュメント 道迷い遭難」 羽根田治 山と渓谷社 ★★☆

    背負い込んだものがあまりにも大きくなってしまったので、最近ますます山登りに対するモチベーションが低下してる。それでも、GWにほぼ半年ぶりに雪山に入った。上田に向かう新幹線の中でこれを読んだ。あんまりビビリながら山に登っても楽しくないけど、万一遭難した場合に、自分ならどういう行動を取るかシュミレートしておくことは大事だろう。それにしても、遭難は本当に怖い・・・。('07.4.29)

「四季のうた」 長谷川櫂 中公新書 ★★☆

    俳句は、季節の賛歌である。こういう齷齪した日々を送っていると、季節の移り変わりを感じる暇もない。時間はただ連続的に流れていく。いつしか桜は散り、子供は新しい幼稚園に通っていた。

    各頁に付いている写真が効いている。解説文も簡潔で良い。「あとがき」があまりにも名文なので、少々長いがここに引用する。

     はるか昔、ユーラシア大陸の東の果ての島々に人々が住みはじめた。そのときから、この島々は優しい四季のめぐりによって人々を包みこんだ。春は木々の花咲く野山に霞がたなびき、夏は苔むした岩のように濃い緑におおわれる。秋になると木も草も実を結び、冬は眠りについた山河に白い雪が降り積もる。
     何万年も前から繰り返されてきたこの時間の循環のなかで、人々は幾たびも生まれ、幾たびも恋をして子どもを育て、幾たびも死んでいった。この人々にとって詩に詠むもの、言葉にしてたたえるものが、まず自分たちをとりまく自然、そして、そこを音楽のように流れる季節の移ろいをおいて他になかったことは何の不思議もない。
     この島々で生まれた文学はすべて季節の賛歌であり、季節とともに生きる人々の賛歌だった。生まれるときも死ぬときも季節に抱かれ、いつでも季節とともにある。この生き方ほど美しいものを、この島の人々は、その後、生み出さなかった。きっとこれからもこれ以上のものを生み出すことはないだろう。
      ('07.4.9)
「ハッブル望遠鏡の宇宙遺産」 野本陽代 岩波新書 ★★

    画像処理の技術を駆使して彩色を施してあるとはいえ、確かに美しい。ハッブル望遠鏡を、必ずしも学問的な理由でなく、美しい宇宙写真を撮影するために用いるというのも、ロマンがあっていいではないか。こういうのがアメリカの懐の深さだと思う。とはいえ、このハッブル望遠鏡も、ブッシュの新宇宙政策構想とかいう国威発揚的プロジェクトの煽りを受けて、今や存続の危機にあるという。

    写真の解説は、やや分かりにくい。もう少し基本的な説明があるといいかも。

    ・・・が、ネットで調べてみると、2006年10月31日にNASAから発表があり、上の方針は変更されたようである。2008年5月にスペースシャトルを打ち上げ、宇宙飛行士によるハッブル望遠鏡の補修を行うという。これによってハッブル望遠鏡は2013年まで延命することになり、その後、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡という更に高性能の望遠鏡にバトンタッチするそうである。よかったよかった。久々にいい話を聞いたぞ。('07.4.7)

「Symmetry and the Monster」 Mark Ronan Oxford University Press ★★☆

    本書に登場する「モンスター」は、196,883次元空間に住んでいる──これは、れっきとした数学用語なのだ。本書は、有限群の分類という20世紀後半に成し遂げられた偉業について解説した、おそらく唯一の啓蒙書である。

    有限単純群(本書の表現によれば、"symmetry atom")は、以下のように分類される:

    (1) 素数位数の巡回群
    (2) 5次以上の交代群
    (3) Lie型の単純群
    (4) 26個の散在型単純群(sporadic simple group)

    有限単純群の分類が完全に終結したのは、2004年であるという。その証明は、「1/100の分量を読むだけで『倦厭の情』が起こってくる」(寺田至・原田耕一郎『群論』、岩波書店)ようなシロモノであるらしい。これは、100人以上の数学者が関わった巨大プロジェクトなのだ。それにしても、現代数学はどうしてこうも難しくなってしまったのだろうか。とても健全な状況とは思えない。もはや数学は、人類の理解力の限界に達してしまったような気がする。

    モンスターとは、26個ある散在群の中で位数(元の数)が最大のもので、その位数は

    808,017,424,794,512,875,886,459,904,961,710,757,005,754,368,000,000,000
    である。さて、モンスター群の既約表現の次数は
    1, 196883, 21296876, 842609326, .....
    となっている。一方、19世紀の古典的な保型関数論の世界にj関数というのがあって、それは
    j(q) = 1 / q + 744 + 196884 q + 21493760 q2 + .....
    である。一見なんの関係もないはずの、j関数の係数と、モンスター群の既約表現の次数の間には、
    196884 = 1 + 196883
    21493760 = 1 + 196883 + 21296876
    864299970 = 2 x 1 + 2 x 196883 + 21296876 + 842609326
    20245856256 = 3 x 1 + 3 x 196883 + 21296876 + 2 x 842609326 + 18538750076
    .....
    という美しい関係が成立している。この現象は、ムーンシャイン(moonshine)というロマンチックな名前で呼ばれている。このネーミングのセンスは見習いたいものだ。ちなみに、moonshineには「ばからしい空想」とか「密造酒」という意味もある。これがどの程度驚くべきことなのか、私にはどうも判断しかねるのだが、有限群の分類の完成をもって有限群論という学問は終了するかと思いきや、そこには予想もしなかった全く新しい世界が広がっていた、というお話である。ムーンシャインは物理学の弦理論の世界にも関係していて、頂点作用素代数とかいうのが現在さかんに研究されているようである。ガロアの作り出した世界が、170年後にこのような展開を見たわけである。

    とりあえず、基礎が全くなっていないので、志賀浩二『群論への30講』(朝倉書店)あたりから読んでみるか・・・。もっと若いうちに、こういうのを勉強しておくべきだった。あまり時間を取れないのが問題だが、全てをキチンと理解しなくてもよい趣味の数学というのは、気楽で楽しいものである。('07.4.4)

「医学は科学ではない」 米山公啓 ちくま新書 ★☆

    医学の目的は病気を治すことであって、そのメカニズムの解明は手段に過ぎないのだから、医学が科学でないのはまぁ当然である。通読してみても、何を主張したいのかイマイチはっきりしない本だった。('07.3.16)

「科学論入門」 佐々木力 岩波新書 ★★

    科学史の一つの謎は、「なぜ近代科学は西欧で発展したか?」ということである。というのも、キリスト教的世界観はむしろ反科学的であるような気がするからだ。古代ギリシャの遺産、というのは理由にならない。なぜなら、西欧文明は古代ギリシャから断絶していて、古代ギリシャの遺産はユーラシアで共有されていたからである。(実際、ユークリッドの『原論』は13世紀には中国語に翻訳されていたという。日本に伝わったのはいつなのだろう?)

    本書は、この疑問に対して一応の回答を与えてくれる。すなわち、ルネサンス以降の西洋においては、(1)教養のある職人層がいた、そして(2)科学が近代国家によってイデオロギーとして取り込まれた、からであるという。確かに、科学は自律的に発展する性質を内在しているように思うので、科学者という存在が社会的・政治的に受容されることが、科学が発展するための必要十分条件なのかもしれない。しかしそうだとすると、「科学の普遍性」に対する素朴な信仰が、果たしてどの程度保証されるものなのか不安になってくる。西洋近代科学と同様に、機械論的な世界観を突き詰めていくことによって、西洋近代科学とは異なる物理学の体系を築き上げることは可能だろうか?とはいえ、近代科学は一度しか「進化」しなかったので、これを検証する手段はない。あるいは和算が唯一の例外かもしれないが、この点についてはもう少し調べてみようと思っている。

    科学史というのは非常に奥が深そうである。人類史とは技術史に他ならないのであって、ナポレオンやヒトラーといった個人の存在は、歴史にとってはさほど本質的ではないのかもしれない。('07.3.8)

「なぜこの方程式は解けないか?」 Mario Livio 早川書房 ★☆

    「シンメトリー」をキーワードに、数学、物理学、進化生物学、心理学、人類学、音楽などのネタを山ほど盛り込んだ本。あまりにも内容が多岐にわたりすぎていて纏まりがなく、雑駁な印象。どれも中途半端な感じがする。著者が非常に博識なのは確かなので、末尾の参考文献は役に立ちそうだが。

    『アーベルの証明』を読んで以来、すっかり群論にハマってしまった訳である。で、期待して読んだのだが、この本には肝心の数学の話はあまり出てこなかった。もっとも、数式を使わずに数学について語るのはそもそもナンセンスなのだろう。という訳で、名著との誉れ高い

    『群の発見』 原田耕一郎 岩波書店

    を購入したので、ボチボチ勉強してみるのだ。アーベルとガロアの伝記は面白いので、その部分は読む価値あり。この話題に関しては既にいい本が沢山あるようだが、残念ながらそのいくつかは絶版になっている。

    かつて、オーストラリア先住民の複雑な婚姻システムが群論で記述できる、という構造主義者お気に入りの話を読んだとき(『はじめての構造主義』)、「だから何?」と思ったものだったが、これってやっぱり「だから何?」という類の話だった訳だ…。('07.2.23)

「インカとエジプト」 増田義郎・吉村作治 岩波新書 ★★

    インカとエジプトの間に共通点があるというのは、収斂進化の例として興味深い。エジプトは周囲を砂漠に囲まれ、比較的孤立した環境にあったので、3000年もの長きにわたって帝国を維持させることができた。ローマ帝国はエジプトを搾取することによって成立しえたのであり、ローマをいたずらに偉大なものと見るのは西欧中心史観にすぎないとの指摘は面白い。いかんせんインカは文字を持たなかったので、たった500年前のことなのにエジプトの記述に比べてずっと空白が多い。それにしても、スペイン人は、なぜインカの高度な文明に対して微塵の敬意も払わず、徹底的に破壊するような愚かな選択をしてしまったのだろうか。インカ人は全くの独力で、あれほどの帝国を築きあげたのであるから、それがもう1000年早く起こっても不思議ではなかったわけだ。もしそうなら、新世界がユーラシアを征服していたかもしれない…などと夢想してみても始まらないのだが。('07.2.16)

「アーベルの証明」 Peter Pesic 日本評論社 ★★☆

    一般の5次方程式は、係数の四則演算と冪乗のみで解くことができない(つまり、「解の公式」が存在しない)。このこと自体は、子供の頃から知っていたように思うが、深く追求しないまま大人になってしまった。また、大学生の頃、群論とかいうものを独学しようと試みたが、あまりにも抽象的で面白くなく、挫折してしまった。実は、群論は、5次方程式が可解ではないことを証明する過程から出てきたアイディアだったのだ。知らなかった…。ピュタゴラス以降の数学史を繙いてみることによって、抽象的な概念がどのように生み出されてきたかがよく理解できる。

    この本はしかし、決して読み易い本ではない。著者はあまり良いサイエンスライターではないらしく、原著には論理的な誤りがあったり、色々と問題があるらしい。これは数学書としては致命的だが、その辺は訳者によってフォローされている。

    本書の良いところは、実際のアーベルの論文が載っていることである。とはいえ、何度読んでもイマイチ分かった気がしないのだが、その概略は以下の如くである(と思う):

    5次方程式

    x5 + ax4 + bx3 + cx2 + dx + e = 0
    の解の公式が存在するとすると、それは
    x = p + p1R1/m + p2R2/m + ... + pm-1R(m-1)/m   (1)
    の形をしている。ここで m は素数、R, p, p1, ..., pm-1 は (1) の右辺のような形。つまり、xa, b, c, d, e の有理式から出発して、その冪が何重にも入れ子になった形である。
     R, p, p1, ..., pm-1 は解 x1, x2, x3, x4, x5の有理式で表されることが示せる。また、x1~x5の可能な置換によって取りうる異なる値の数は2または5のみであることが知られている。このことから、実は (1) は
    x = p + p1R1/5 + p2R2/5 + p3R3/5 + p4R4/5
    R1/5, p, p1, ..., p4q + q1S1/2q, q1, Sa, b, c, d, e の有理式)という形をしていなければならないことが分かる。すると、R1/5 は10次方程式の解だから10通りの異なる値を取りうる。一方、R1/5
    (x1 + α4x2 + α3x3 + α2x4 + αx5) / 5
    とも書ける(α は1の5乗根)が、これはx1~x5の可能な置換によって 5! = 120通りの値を取りうる。これは矛盾である。■

    どうやら、5次方程式が4次までの方程式と本質的に異なる理由は、「5次の交代群(偶置換全体からなる群)は最小の単純群(正規部分群を含まない群)である」からのようなのだが、もう少しキチンと勉強しないと理解できないだろう。5次方程式を楕円モジュラー関数を使って解くという話も楽しそうだ。「訳者ノート」が嬉しい。 ('07.2.12)

「祖先の物語 (上)(下)」 Richard Dawkins 小学館 ★★★

    これは、現在から過去へ向かう巡礼の旅である。系統樹を逆向きに辿りながら、合流してくる地球上の仲間たちに各自の物語を語ってもらうという形をとっている。我々は、自分自身に近い生き物ほど詳しく知りたいと思うし、実際に良く知っているので、生命史を語るのにこれに勝る方法はないと思えてくる。過去への巡礼の旅は、次第に曖昧模糊とした困難なものになってくる。ついに、最も謎に満ちた「生命の起源」の瞬間に到達したとき、はるばる旅をしてきたという感慨にとらわれることであろう。

    分子生物学的な見方に慣れてしまうと、いくつかのモデル生物について知ることで、生物を理解した気になってしまう。一方、博物学的な「いきもののはなし」は、往々にして、雑多なトリビア的知識の寄せ集めで終わってしまう。本書の素晴らしいところは、様々な、いや、地球上の全ての生物について語っていながら、全体が一つのテーマによって貫かれているところである。そのテーマとは、言うまでもなく<進化>である。これだけ数多くの、具体的な最新の話題を盛り込みながら、全体として一つの物語にまとめ上げてしまうドーキンスの筆力には圧倒させられる。本書を通読してみれば、誰もが、生物多様性に対する驚嘆の念を抱かずにはいられないだろう。

    我々が過去へ向かって遡っていくと、40回足らずのランデブーで地球上の全ての仲間たちと合流してしまう。それが少ないのかどうかは良く分からないが、本書に従ってそれらを列記してみれば、以下のようになる。

    0全ての人類All Humankind
    1チンパンジーChimpanzees
    2ゴリラGorillas
    3オランウータンOrangutans
    4テナガザル類Gibbons
    5旧世界ザルOld World Monkeys
    6新世界ザルNew World Monkeys
    7メガネザルTarsiers
    8キツネザルとその仲間Lemurs, Bushbabies, and Thier Kin
    9ヒヨケザルとツパイColugos and Tree Shrews
    10齧歯類とウサギ類Rodents and Rabbitkind
    11ローラシア獣Laurasiatheres
    12異節類Xenartherans
    13アフリカ獣類Afrotheres
    14有袋類Marsupials
    15単孔類Monotremes
    16蜥形類Sauropsids
    17両生類Amphibians
    18肺魚Lungfish
    19シーラカンスCoelacanths
    20条鰭類Ray-finned Fish
    21サメとその仲間Sharks and Thier Kin
    22ヤツメウナギとメクラウナギLampreys and Hagfish
    23ナメクジウオLancelets
    24ホヤ類Sea Squirts
    25ヒトデとその仲間Ambulacrarians
    26旧口動物Protostomes
    27無体腔型扁形動物Acoelomorph Flatworms
    28刺胞動物Cnidarians
    29有櫛動物Ctenophores
    30板形動物Placozoans
    31カイメン類Sponges
    32襟鞭毛虫類Choanoflagellates
    33ドリップスDRIPs
    34菌類Fungi
    35アメーバ動物Amoebozoans
    36植物Plants
    37不確かなグループUncertain
    38古細菌Archaea
    39真正細菌Eubacteria

    最近のゲノムデータの蓄積によって、哺乳類の目の分岐順序など、形態では決して分からなかった物語を語ることができるようになってきた。ただし、ドーキンス自身も述べているように、いくつかの分岐の順序は極めて不確かである。実際、本書の出版後の研究により、現在ではランデブー23と24の順序が入れ替わることがほぼコンセンサスになっている。

    いくつか誤訳を発見したので、ここに列挙しておく(初版第1刷、いずれも下巻)。

  • 176頁7行目:(誤)五〇〇〇万年前 →(正)それより五〇〇〇万年後の
  • 197頁1行目:(誤)線より上および下 →(正)分子と分母
  • 286頁19行目:(誤)二倍 →(正)三倍
  • 286頁20行目:(誤)二倍 →(正)三倍
  • 315頁4行目:(誤)真核生物 →(正)真正細菌
  • 377頁8行目:(誤)旧口動物 →(正)動物界
  • 日本語版の欠点は、高く(2冊で6400円)、重いことである。こんなに分厚い紙を使う必要があったのだろうか?('07.2.5)

「ウェブ人間論」 梅田望夫・平野啓一郎 新潮新書 ★★

    『ウェブ進化論』は楽観主義に貫かれたインターネット礼賛の書であったが、著者の「ネットが描くバラ色の未来像」的な考え方はどうもピンと来なかった。むしろこっちの方が面白かったかも。梅田氏は、ネットが清濁併せ持っていることなど百も承知だが、「濁」の部分には目をつぶって「清」の部分を見よ、という。だが、ネットはそんなにキレイなものではないのであって、私としては、そういうドロドロした、悪意に満ちた部分の方にも興味がある。その点では、小説家である平野氏の考え方の方が共感できる。ただ、この本も対談形式なので、例によってあまり深いことは書かれていない。

    「1975年分水嶺説」は興味深い。mixi人口も75年生まれ辺りを境に激減するようだし(未確認)、この説は正しいような気がする。(ちなみに私は71年生まれなので、旧人類に属する!)大学生の時に、普通にネットに触れることができる環境にあったかどうかがクリティカルなのだろう。私も、時間だけはたっぷりあった、自分探しの途上の冴えない大学生の頃に今のようなネット環境にいたら、ネットの中の住人になっていただろうなと思う。

    平野氏は小説家らしく、本というメディアがネットに取って代わられることを危惧している。しかし、ネットはまとまった文章をじっくり読むのには全く適していないので、それは杞憂だろうと思う。この点に関しては、梅田氏による経済の視点からの議論が興味深い。週刊誌的な、あるいはブログ的なチープな文章と、そうでないものとに二極化していって、ネットと書物との棲み分けができるのではないだろうか。ただ、リアルタイム性はネットの最も得意とするところなので、新聞はあと1世代後にはほとんど消滅するのではないだろうか。実際、私も新聞を取るのをやめたのだが、ちっとも困っていない。('07.1.28)

「ウェブ進化論」 梅田望夫 ちくま新書 ★★

    あまりにも毎日当たり前のように使っているので気づかなかったが、確かにgoogleは凄いらしい。なるほど、1995年頃、私が初めてインターネットというものに触ったときは、リンクを辿ってたまたま面白い情報に行き着くか、ウェブサイトを紹介してある電話帳のような本を見るしかなかったような気がする。

    真実は、テレビや新聞など既存のメディアよりもネットの中に潜んでいる、とは思う。mixiもWikipediaも面白いと思うが、悪意に満ちているのもまた事実である。まぁしかし、そんなことはどうでもいい。私は基本的に、新しいことにはあまり興味がないので、著者の興奮にはさほど共感できなかった。('07.1.24)

「右翼と左翼」 浅羽通明 幻冬舎新書 ★★

    まことに分かり易かった。無知な私にはこのくらいのレベルが丁度宜しい。「なぜネットウヨクは増殖するか?」という素朴な疑問から本書を手に取ったのであったが、そんなことはもうどうでもよくなった。ウヨクとかサヨクなんていう言葉は、もはや、ネット上で知識をひけらかし、相手を罵倒することによって自己満足を得るという虚しい営みに使われる記号に過ぎない。「右ー左」という図式を超えたところに正解があるはずだが…。('07.1.16)

「Endless Forms Most Beautiful」 Sean B. Carroll W. W. Norton & Company ★★★

    稀代のエンターテイナー、Sean Carrollが一般向けに書き下ろした、Evo Devo礼賛の書。彼の講演は非常にattaractiveなのだが、サイエンス・ライターとしての腕前も素晴らしい。非常に勉強になった。non-nativeにとっては、妙な俗語表現が多用してあったり、見慣れない構文が使ってあったりして解読するのに骨が折れるが、2度読むとよく理解できる。じっくりと読み込む価値は充分にあると思う。

    以下、各章の内容を要約する。

    Part I The Making of Animals
    1. Animal Archtecture: Modern Forms, Ancient Design
    動物の体のデザインは極めて多様だが、脊椎動物の脊椎や節足動物の体節に見られるように、繰り返し構造(modular archtecture)という共通の特徴をもつ。William Batesonは、ある特定の動物のグループにおいて、そのグループ内でのもっとも顕著な違いは繰り返し構造の数と種類である、述べている。また、Samuel Willistonは、「進化の過程において、繰り返し構造の数は減少し、機能は特殊化するという傾向がある」という法則(Williston's law)を提唱している。

    2. Monsters, Mutants, and Master Genes
    一つ目(cyclopia)や六本指(polydactyly)の印象的な写真が登場し、読者の興味を惹きつける。この辺の構成がうまい。妊娠中の特定の時期にある植物を食べるとcyclopiaの羊が生まれてくるが、このようなモンスターは人為的に発生を操作することによっても作ることができる。Hans SpemannやJohn Saundersが発見したorganizerは、他の個体の胚に移植することによって余分な頭や指を生やすことができる。上述のBatesonは、"Materials for the Study of Variations"において、自然界に存在するモンスターの例を多数収集した。彼はこれらを、跳躍的な進化を可能にしてくれる"hopeful monster"だと考えた。(実際には、Stephan Jay Gouldが述べたように、これらの例は科学的にはhelpfulだが進化にとってはhopelessである。)Batesonの本にはまた、親指の位置に鏡映的に人差し指〜薬指が生えている驚くべき八本指の女性の例や、ハエの触覚に肢が生えてくるhomeotic mutantも登場する。

    3. From E. coli to Elephant
    "What is true for E.coli is also true for the elephant"と言ったのは、genetic switchのon/offによる制御という遺伝子のロジックを(François Jacobとともに)発見してノーベル賞を受賞したJacques Monodである。ハエでhomeotic mutationを引き起こすHox遺伝子群は、マウスでもほとんど同じだった、というのはお馴染みの話である。だが、これは実に驚くべき発見であって、1960年代にErnst Mayrが述べているように、かつては生物の多様な形態は別々の遺伝子によって作られていて、系統的に遠い生物間で似た遺伝子など見付からないと考えていたのだ。実際には、進化の世界では"Many loads lead to Rome"ではなかったのである。Hox遺伝子群以外にも、Carrollのいう"toolkit gene"は多様な生物間で非常によく保存されていて、眼をつくるPax-6、肢をつくるDistal-less、心臓をつくるtinmanなど、枚挙にいとまがない。もう一つの例はSonic hedgehogで、実はこれがcyclopiaとpolydactylyの両方に関与していたというのがオチである(ネタばれスミマセン)。

    4. Making Babies: 25,000 Genes, Some Assembly Required
    生物の発生というのは、この世で最も驚異的なことの一つである。それ自体は単純な遺伝子が、如何にして複雑な構造を造り得るのか?このことの理解は、遺伝子の発現を可視化することによって急激に進んだ。実際に形が造られるよりも前に、toolkit geneが将来翅になるところ、肢になるところ、脳になるところなどに印を付けていくのだ。百聞は一見に如かず、である。美しい写真多数。

    5. The Dark Matter of the Genome: Operating Insctructions for the Tool Kit
    それでは、将来の形を決めるtoolkit geneは、如何にして特定の場所に発現することができるのか?言うまでもなく、それを制御しているのが、ゲノムのダーク・マターであるgenetic switchである。重要なことは、複数のスイッチを組み合わせることによってどんなパターンでも作ることができるということだ。そして、あるスイッチによって別のスイッチのon/offが制御され、という具合にgenetic switchはネットワークを形成している。このcombinatorial logicによって、単純から複雑が生み出されるのである。このことはまた、toolkit paradox──toolkit geneがそんなに似ているなら、なぜ生き物の形はかくも異なっているのか──を解決する。すなわち、"Switches enable the same tool kit genes to be used differently in different animals."という訳だ。

    Part II Fossils, Genes, and the Making of Animal Diversity
    6. The Big Bang of Animal Evolution
    Cambrian Explosionを印象づける二つの化石群は、バージェス頁岩(Burgess  Shale)と中国雲南省の澄江(Chengjiang)動物群である。これらの化石群に含まれる主要なメンバーは、節足動物と、Aysheaia, Opabinia, Anomalocaris, Hallucigeniaなどの奇妙な怪物たちを含むLobopodian(葉脚動物)である。Lobopodianは現存するOnychophora(有爪動物)を含み、これは節足動物と姉妹群をなしている。Cambrian Explosionはいかにして起こったのだろうか?筆者らのグループがOnychophoraのHox遺伝子を調べてみると、それはショウジョウバエの遺伝子セットと同じだった。新しいボディープランは新しい遺伝子の獲得によって起こるのではない──toolkit geneの使われ方が変わることによって引き起こされるのだ。実際、様々な節足動物間で、Hox遺伝子の発現領域がシフトしているのである。発現領域のシフトはスイッチの付け替えによって起こる。このような方法によって、toolkit proteinのfunctional integrityを破壊することなく、ボディープランを大規模に改造することが可能になるのだ。

    7. Little Bangs: Wings and Other Revolutionary Inventions
    動物の付属肢の進化は、ナイフやフォークの進化に(多重遺伝子族の進化にも!)似ている。すなわち、重複とそれに続く機能分化である。節足動物の祖先は水中に住んでいた。では、昆虫の翅は何に由来するのだろうか?このような問いに対し、toolkit geneの発現を見るという手段によって、Evo Devoは揺るぎない証拠を与える。水棲の祖先が持っていた、食餌・遊泳・呼吸・歩行に用いた多機能の付属肢が、昆虫の翅、甲殻類の鰓、クモ類のbook lung, tracheaeおよびspinneretsになったのである。脊椎動物の進化において、飛ぶ能力は3度独立に獲得された──翼竜(pterosaur)、鳥類、コウモリにおいてである。いずれにおいても、翼は前肢が変形したものであるが、その変形のされ方は全て異なっている。新しい形態の進化には、4つの秘密がある。一つ目は、「すでにあるものを使い回す」ということである。二つ目と三つ目は、multifunctionalityとredundancyである。そして四つ目は、modularityである──これが、節足動物と脊椎動物が、地球上で最も繁栄し得た理由であるようだ。

    8. How the Butterfly Got Its Spots
    妖しくも美しい、多様な蝶の羽の模様は、どのように進化してきたのだろうか?著者らは、1994年に、蝶の羽の目玉模様を形成にかかわるtoolkit geneを発見している。といってもそれは、ハエなどの他の昆虫で、肢になるべきところに印を付ける働きをするdistal-lessであった。蝶の系統で、この遺伝子は目玉模様の形成という新たな機能を獲得したのである。それは、新しいスイッチの獲得によって比較的容易に起こりうる。

    9. Paint It Black
    ジャガーや、ある種のネズミや小鳥では、体毛の黒い個体が存在する。その原因は、melanocortin-1 receptorに生じた突然変異であることが知られている。これは、本書の中で初めて登場する、スイッチでなく蛋白質そのものの配列が変わることによって形態が変化する例である。

    10. A Beautiful Mind: The Making of Homo sapiens
    この章の話題は、これまでとはやや毛色が違って、ヒトの進化である。この話題に関しては類書が山ほどある。ヒトをヒトたらしめた遺伝的変異はまだほとんど分かっておらず、ここに登場するのも、おなじみのmyosin heavy chain 16とFOXP2のお話である。

    11. Endless Forms Most Beautiful
    本書の題名は、Charles Darwinの"Origin of Species"(初版)の結びのフレーズに由来している。

    There is grandeur in this view of life, which its several powers, having been originally breathed into a few forms or into one; and that, whilst this planet has gone cycling on according to the fixed law of gravity, from so simple a beginning endless forms most beautiful and most wonderful have been, and are being, evolved.
    生命はそのあまたの力とともに、最初わずかなものあるいはただ一個のものに、吹きこまれたとするこの見かた、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある。(八杉龍一訳)
    この章では、まずEvo Devoが、いわゆるModern Synthesisに続く新たな進化の総合説(evolutionary synthesis)であると説く。そして、創造論者が幅をきかせる中で、Evo Devoがいかに進化教育に貢献できるか、というアメリカ固有の問題について力説している。そしてやはり、我々が心に留めておかなければならないのは種多様性の問題である。本書の締めくくりに、著者は次のように述べている。
    What a tragic irony, that the more we understand of biology, the less we have of it to learn from and to enjoy.
    ('07.1.13)
「被差別部落のわが半生」 山下力 平凡社新書 ★☆

    被差別部落の発生が近世にあるというのは虚構だとか、江戸時代の被差別部落はむしろ豊かであり、貧しくなったのは明治以降であるとか、興味深い指摘もあった。しかし全体的に言って、何とも気が滅入る本だった。著者の自己陶酔なぞ聞きたくもないし、この本の内容では、却って差別を助長するような気がしてならない。('07.1.12)

「在日」 姜尚中 講談社 ★★☆

    甘い声でお茶の間を魅了し、今やマスコミに引っ張りだこの姜さんであるが、このような過去があったとは…。自分もルーツの一部は韓国にあるので他人事ではないが、二重三重にアイデンティティを引き裂かれた在日の苦悩というのは、当事者でないと理解できるものではない。

    それにしても、朝鮮半島の歴史は悲惨である。植民地支配の犠牲を強いられ、やっと解放されたと思ったのも束の間、国が分断されてしまう。ドイツだって分断されたが、「ナチス・ドイツの暗い歴史がのしかかるドイツの分断は、ある意味では歴史の「報復」と言えないわけではない」(p.64)。そして、半世紀以上経った現在でも、統一どころか出口が全く見えない状況である。今、北朝鮮といえば超ネガティブなイメージで語られるが、70年代までは北朝鮮は地上の楽園と考えられていて、一方韓国は後進的で、野蛮な独裁国家というイメージだったのだそうだ。('07.1.7)

「アフリカを行く」 吉野信 中公新書

    著者は写真家で、野生動物などのカラー写真が多数掲載されているが、期待外れだった。この人、ターザン映画を見てアフリカに憧れ、動物を殺戮するハンターに男のロマンを感じるような人らしいので、半世紀前のアフリカ観が刷り込まれてしまっているのだろう。文章の端々に、アフリカに住む人々に対する無理解が感じられ不愉快になった。これではただの金持ちツアー観光客レベルだ。('07.1.6)


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